2014/07/31

イデアが動くようになる




>何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことでしょうか。


 2010年に Piggy さんが「大風呂敷」という掲示板に書かれた記事の一部を抜粋して、この blogger の記事にさせてもらってある。

http://sodokusha.blogspot.jp/2014/07/blog-post_24.html

 Piggy さんの記事は、英語で話すことができなかった人が、話し始めたことを報告して下さったものである。これこそが、いわゆる「英会話」を欲しがる人たちが欲しがっているものであろうけれど、それを可能にした「場」は、英会話学校でもなければ、学校制度の中の学校でもない。

 それは「一人の場=意識」以外のものではないのだ。
 付け足して言わせてもらえば、「一人の場=意識」を確保した人に、素読舎の方法が有効だったということだ。

 素読舎のレッスンは「一人の場=意識」で行うべきことを伝えるレッスンなのである。自分で練習するための方法を伝えるのである。

 レッスンの途中から、コーチに力をつけて「もらおう」という意識から抜け出てもらうようにしている。「してもらう」という意識ほど、語学の邪魔になるものはない。

 力というものは自分で自分につけるものなのだということを認識してもらう。それが素読舎のレッスンの眼目なのである。

 例えば、「言いながら書きながら思う」という練習は、練習方法を伝えることはできるが、その練習自体をレッスンで扱うことはできない。レッスン時間のほとんどは、「音づくり」と「イントネーションの自己決定力」の養成に費やされる。

 原理が「言いながら書きながら思う」であるような練習は、表面的な形が違っているだけのものなら、他にいくつもありうるだろう。まともな「音づくり」を一応済ませたレベルの口の動きを持った人なら、CDの英語の複製音声を使って、「真似ながら書きながら思う」もありうるし、同じ単語やフレーズを繰り返し再生させられるなら、「聞きながら書きながら思う」もありうる。パソコンのブラインドタッチができる人なら、「言いながら打ちながら思う」もありうる。

 肝心なことは、「身体化」という一語で間に合うのである。これは、生徒が自分でやるしかない。

 「英会話」能力を欲しがる人たちの多くが、英会話学校に通う。しかし、英会話学校に通って英語を話し始めた人に私は会ったことがない。英会話学校に通う前から多少はしゃべれた人が、英会話学校に通うことでもっとしゃべれるようになったという事例ならありうるだろう。英会話学校に払う金に見合うものを得るつもりなら、基体になるものを最初に持たなければならない。
 素読舎が伝えるのは、その基体の作り方なのである。

 「英会話、風邪じゃないからウツラナイ」と昔から言ってきた。(幼児は別である。幼児にはウツル。日常の生活言語が日本語である場合、このウツッタエーゴは害になる。私は何人もの幼児英会話を経た子供をレッスンしたが、日本語の語感がにぶいと感じる。)

 幼児英会話はとことん叩いたことがあるから、いずれこの blogger にも転写する。大人相手の英会話学校の話に戻す。

 英会話学校の初心者用のクラスを想定してみればいい。
 教室というところは、英語の「磁場」ではないということが見て取れる。
 生徒たちの意識は日本語とともに動いている。先生一人だけが、意識が英語とともに動いている。その場は、日本語を封じられた「日本語の磁場」でしかない。先生という個人が、一人だけ英語をしゃべっても、「英語の磁場」は形成できない。

 原理的に英会話学校には「英語の磁場」は形成できないということは、私の磁場論を読まれた人にはわかる。わかれば、英会話学校になんか通うことはない。

 多くの人が英会話学校に通っているんだということは、例えば NOVA という英会話学校が、「駅前留学」とかうまいことを言い、駅前の一等地に学校を置き続けることができたということでわかる。
 教室は「磁場」にはなれないのに、「駅前留学」というキャッチで、NOVA が入っているビルが「磁場」であるかのように幻想させる詐術。その詐術の別名が英会話学校なのである。 NOVA に限ったことではない。

 素読舎は「英会話」などということはしない。そんなものは教えてどうにかなるものではない。

 音に関して、単語に関して、語法に関して、文に関して、それを扱う方法は伝える。音に関してだけでも、その説明法は素読舎以外にはないものだ。私がどこかから習ってきたものではないからである。ほぼ40年かけて自前で作ってきたものだからだ。

 レッスンを通じて得た方法を「自分一人の練習でどんどん使う」ということは生徒が自分でやるべきこととしてある。どんどん使って練習した結果、英語を話し始める人がいるだけのことである。

 量に関しては、「語学の90%以上が自分ですること」と私は言い続けてきた。素読舎が伝えることができるのは、10%程度なのである。

 しかし、この10%があるとないとでは、残りの90%の質ががらりと変わってしまうということはある。

 それでも、例えば、毎週一回30分のレッスンを、5年続けたとしても、10年続けたとしても、90%以上は「自分がすること」としてあることに変わりはない。

 英語をしゃべれなかった人がしゃべり始めたというのが、 Piggy さんに起こったことである。これは、Piggy さんが自分でやるべきことをやったから起こったことなのだ。素読舎の方法が何をやるべきなのかを伝えることができたから起こったことであるとも言えるが、Piggy さんが90%以上を「自分でやる」のだということがわからない人だったら、英語をしゃべり始めるということは起こらなかった。

>話す機会からは逃げ回っていました。逃げるのに疲れて英会話教室でプライベートレッスンを6年くらい前に半年くらい受けましたが、何かが身に付いたという実感はまったくなく、敗北感だけでした。

 「自分でやる」ということに関しては 素読舎をみつけ出してくれる前にも Piggy さんは自分でやられていたのだと思う。英会話教室の高価なプライベートレッスンを使っておられた時でも、レッスンの場に身を置くだけでなく、自分で練習することはやられていただろうと推測する。
 素読舎のレッスンを使われた時に、自分一人でやった練習がレッスン時に反映された様子からそう推測しているのである。

 いずれにせよ、英会話学校を使うことでは Piggy さんはしゃべれるようにはならなかったのだ。はっきりとぶしつけに言わせてもらえば、無駄金であった。このことは Piggy さん一人だけに起こったことではない。英会話学校を使う人のほとんどすべての人に起こったことであり、今も起こっていることである。(人々が役に立たないと知り始めたので、英会話学校は今では見捨てられつつあるように思う。)

 「自分でやること」と素読舎の方法のどちらが欠けても、英語でしゃべり始めることは Piggy さんに起こらなかったとまでは言えるだろう。とにかく、「自分でやること」をやらないと、金も方法も「宝の持ち腐れ」あるいは、「持ち腐れの宝」になる。

 Piggy さんは、10%未満+90%以上とは感じないかもしれない。素読舎の方法がやったことが40%、自分がやったことが60%くらいに感じるのかもしれない。もしもそうであるなら、それは Piggy さんが素読舎の方法で練習しはじめる前に、(知識的には)大学受験レベルの英語をものにしてあったせいである。

 私は学校の英語とか、受験制度内の英語とかいうものを勘定に入れていない。素読舎の方法の眼目を見抜き、素読舎から得るものを10%程度だと認識し、90%以上の「自分がやるべきこと」をやれば、学校なんかなくても英語はものになると勘定している。

 学校というものを勘定から外せば、「自分でやること」は90%以上になる。

 自分がやるべきことを一人でやることには金はかからない。「言いながら書きながら思う」ということは、ボールペンと紙さえあればできるので、200円もあればかなりの練習ができる。
 そういう金のかからない練習をちゃんとやらなければ、日本在住のままで英語をしゃべり始めるのにかかる金は数百万で足りるかどうかわからない。一千万を越えるかもしれない。たいがいの高級車よりも高くなると私は考えている。一千万を越えても、しゃべり出さない人はしゃべり出さない。

 「日本在住のまま」とはそういうことだ。

 いや、そんなことより、時間が足りない。一千万以上を払っている頃には寿命が尽きている。

 「今やってることを続けても、しゃべり始めるまでには300年くらいかかりますね」と私は生徒に言うことがある。レッスンを「受けているだけ」で、いつまでたっても自分からやり出すことがない生徒にそう言うのである。実は300年で足りるかどうかはわからない。500年かもしれない。ともかく100年や200年ではないとはわかる。

 誰も300年以上も生きてはいない。だから、生徒は私が冗談を言っていると思うのかどうか、たいていは笑うのである。

 私は冗談を言っているのではない。私はそれを言う時に、笑いながら言うことはない。

 受験英語を勘定に入れろと言われれば、英語をしゃべり始めるのに必要な蓄積の20%から60%を占めるかもしれない。しかし「音づくり」も「イメージ化」も経ていない英語だから、受験英語が邪魔をする場面は多いのである。
 音に関しては、ほとんどすべての生徒が、元から作りなおさなければならない。(英検受験や TOEIC 受験も同じである。)

 学校英語、受験英語、英検英語、TOEIC英語から、邪魔され減殺されるパーセンテージを勘定に入れれば、10%から40%は受験英語で間に合うというくらいなものだろうではないか。口の動きの平板さを立体的なものにする基礎工事まで勘定に入れれば、もっと少ないかもしれない。

 「やりなおし英語」はたいていは受験英語以後のものだ。二度手間であっても、二度手間をやるしかない。減殺されるのは仕方がない。生徒がもうそれを生きてしまったのだから、仕方がないのである。

 「音づくり」に関しては、年齢も関係がある。歳をとればとるほど、口は日本語音用にしか動かなくなってくる。あるいは、身に染みついたカタカナ英語音用にしか動かなくなってくる。

 素読舎の方法をみつけてもらうなら、早いほうがいい。
 (しかし、小学校4年からしか受け付けていない。それまでは日本語の語感が養われるべき期間だと考えている。私は自分の孫が小学1年生の時に、素読を原理とした方法のみでレッスンをやってみた。孫は実験材料だった。それはそこそこうまくいったが、私の語学論にある「からっぽの電池でいい」「種のまま持たせる」「芽を出させてはいけない」というような根本的なことを理解している親の子供しか、小学校低学年の子供を受け付けることはできない。この期間は、文字に目をなじませ、音に口をなじませるだけでいいのだということを理解していない親の子供を受け付けたって何の評価もしてもらえない。それだけでなく、「種のまま持たせる」ことが子供の日本語を守っているのだということすらわかってもらえない。そういう親たちは、素読舎などに見向きもせず、そこらの幼児英会話教室や小学生向け英会話教室に子供を通わせたりするだろう。でかい損をするぜとだけ言っておく。日本語の語感が壊されたら、その子供の一生の損になるのだ。)

 本題に戻る。
 いろんな要素がからむが、受験英語を経ていない英語は、やはり「自分でやること」が90%以上だと考えるべきだということである。

 もちろん大学受験レベルの英語をものにしてあれば、「やりなおし英語」には有利だ。それに「音づくり」を噛ませ、日本語単語と英単語の「並列状態」から抜け出してもらい、イメージからイメージをたどる意識状態を作り、イメージからイメージをたどることが高速化すれば、英語はしゃべれるようになる。目を右から左へ動かさないでも読めるようになる。聴き取れるようにもなる。
 これが Piggy さんに起こったことである。

 要諦はやはりイメージの動態なのである。意識が日本語を抜け出すことなのである。

 もう一度、Piggy さんの文章を引用する。

>何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことでしょうか。

 「言いながら書きながら思う」は、単語単位でやる練習である。肝心なことは「思う」の実質にある。

 イメージ化は、実は単語単位にとどまらない。
 文に内在する語法(文法)でも、文法的な説明を理解しただけのレベルにとどめておいたら使い物にならない。(入試では目を右から左に動かして理解するのでもいいので、使い物になる。)

 語法にもイメージというものがある。
 進行形には進行形の、受動態には受動態のイメージがある。

 「習うより慣れろ」という言い方があるが、これは語法のイメージが意識に生じるのを「瞬時化しろ」と言っているのである。「瞬時化」し、さらに「無意識化しろ」と言っているのだ。
 7語から10語でできている文を、文法用語を思うこともなく、英単語に対応する日本語単語を思うこともなく、何を言っている文かが読めるなら、単語に関しても、語法に関しても、「瞬時化」はできており、もしかすれば「無意識化」もされている。

 基礎工事は「言いながら書きながら思う」だが、レッスンの「音づくり=インプット」も大きく働く。

 「無意識化」されたものが蓄積されて、「イメージからイメージをたどる」ということが可能になる。
 その時は、イメージはイメージだとは感じられないものになっている。イメージよりももっと軽いもの=イデアが動くようになる。




2014/07/27

元にあるのは「言いながら書きながら思う」こと



>私が「音読のおかげだ」と飛び跳ねるぐらいの嬉しさで実感したのは、中3の時期でした。このころは受験シーズンなわけで、様々な長文を読み始めるのですが、ある日の授業で突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになったのです!自分でも驚きました。「あ!読めてる!分かる!本当に!?」って。この時の気持ちは今でも全く忘れていません。そのときしみじみと「音読だ!」と感じました。



 先日、上に引用した部分を含むKの記事を掲載した。これをもとにコメントしてみたい。

 私はよく「トンネルに入る」とか「トンネルを抜けた」という言い方をするが、「突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになった」というのは、一つの「トンネルを抜けた」状態なのである。
 Kはよく練習した生徒だが、この「トンネルを抜けた」状態になるのに丸3年はかかっている。その3年の間に起こっていたことは何なのか、蓄積されたものは何なのかということを言い当てられれば一つの語学論になる。

 「言いながら書きながら思う」という練習方法を私は生徒に奨めてきた。
 これは単語単位でやる練習である。
 この時扱う英単語は、「口を大きめに使って引き締める」とか「口の動きを浅くしないでつなげる」ということを踏まえて、「音づくり」が完成した文に含まれる英単語がいい。

 ひとつの単語を相手に「言いながら書きながら思う」ということをする。この場合の「言いながら」は「口を大きめに使って引き締める」とか「口の動きを浅くしないでつなげる」というようなことには気を使わなくてよい。舌の位置、唇の開き加減など、口の動きが確保されていればよい。小声でぼそぼそ「言いながら」でも構わない。その単語を含む文全体の音づくりは仕上げてあるので、小声で言うので構わない。

 書く速度は、言う速度よりかなり遅くなるから、「書きながら」によって、口の動きは制約される。口の動きは手がスペリングを書くスピードに従うので、かなりゆっくりしたものになる。手はすばやく動いているが、口の動きはゆっくりしたものに感じられる。それで構わないから、「言いながら」と「書きながら」を同時化させる。

 「言いながら書きながら思う」という時の、「思う」についてが一番説明しにくい。この単語は「こういう感じ」だという感じをしっかりと持つこと。「こういうことだ」というときの「こういうこと」を狙いを定めるようにイメージすること。

 「こういう感じ」と「こういうこと」という二つのものを、煮詰めて一つのものにする。それが「言いながら書きながら思う」の「思う」である。

 この時に、英単語のイメージが作られると同時に、英単語と日本語単語の「並列状態」から意識が抜け出す。イメージが明確になると、英単語は具体的な日本語単語を脱ぎ捨てて、イメージと一体化する。
 日本語単語は不要になり、イメージと英単語が合体した状態ができる。

 しかし、まだその元がある。

 「言いながら」という口の動き、「書きながら」という手の動きの中に、イメージを溶かし込むようにする。うまく溶かし込めれば、口の動きから生じる音とイメージが一体化したように感じられる。音とイメージが溶け合った一つのものと感じられるようになる。
 「言いながら書きながら思う」を激化すれば、同じように、手の動きから生じるスペリングの全体とイメージが一体化したように感じられるようになる。スペリングがそのままその単語のイメージとして感じられるようになる。

 強引な話である。しかし、それが語学なのである。

 「言いながら書きながら思う」ことで、「音とイメージ」、「スペリングとイメージ」という二つのものが溶け合い、一つのイメージが独在するように感じられるようになる。

 イメージが音やスペリングという手足を持つような状態になる。

 音やスペリングというより、口の動き、手首の動きと言った方がいい。イメージという体があり、それが口や手首の動きを備えている状態になる。イメージが本体になるのである。
 
 「言いながら」も「書きながら」も初めは、音の内側、スペリングの内側にもぐりこみ、体になじませるための行為である。体によくなじませておいて、体の動きとイメージを合体させる。さらにイメージを純化させたり、強化させたりすると、イメージが本体となり、イメージが口の動きや手首の動きという手足を備えた状態になる。

 体の動きと合体し連動するイメージを作り出さないと、日本在住のままで、使える英語の基を作ることはできない。

 (「言いながら書きながら思う」だけでなく、Kが書いているように「様々な長文を読み始める」ことで、英単語のイメージは純化され強化されていく。同一の単語が別の文に使われるとき、同じ単語が少し違う表情を浮かべる。その違いを感じとることを繰り返すことによって、その単語のイメージの核がしっかりしたものになっていく。)

 人はいろいろなやり方があると思っている。いろいろなやり方と見えるものは、表面的な違いにすぎない。実はいろいろなやり方などというものはない。イメージを作り出すことと、作り出したイメージを音やスペリングと合体させるというやり方しかありはしない。それさえ本当に実現されれば、外見はどんなやり方だって構わないというだけのことである。

 私の「言いながら書きながら思う」という練習方法は、エッセンスをそのまま練習方法の名前にしたというだけのことである。

 Kも「言いながら書きながら思う」という練習の厚みを持ったのである。その発展形としての「電圧装置」というやり方があるが、Kに「電圧装置」をやれと言ったことはなかったと思う。Kが作った厚みは、「言いながら書きながら思う」ことの厚みだったはずだ。

 その厚みが一定のレベルに達したときに、「ある日の授業で突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになった」ということが訪れたのである。

 Kは、「すらすら読みながら意味をとれる」と書いているが、これは、目を左から右に動かす動きで意味がとれるということを言っている。

 一般的な英語学習者にこれが実現している人はきわめて少ない。当然、英語は使えるようにはならない。左から右に向かって読み、わからなくなって右から左に視線を逆戻りさせ、また左から右に、再度右から左にというように、「右から左に」を混在させたような読み方が多くの日本人の英語の読み方である。この読み方から抜けられない人は、意識が英単語と日本語単語の「並列状態」であり、日本語単語を呼び出さないと英語の文の脈絡がつかめないのである。これを抜け出さないと「使える英語」は絶対に手に入らない。

 Kが「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」と言っている喜びは、英単語と日本語単語の「並列状態」を抜け出た喜びなのだ。英単語と日本語単語をごちゃごちゃさせる読み方とは違うレベルの読み方が生じた喜びなのだ。

 Kが書いたものは、イメージからイメージをたどる読み方の誕生を告げている。それが「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」だったのである。

 これは、英単語がイメージ化された状態でなければ起こらないことだ。

 Kにこれが起こったのは、Kが私の言うことの眼目をつかみ、それを実際に激しくやったからだ。それによって、「トンネルを抜けた」からだ。

 眼目をつかむこと。
 それこそが、語学論の萌芽のようなものだ。

 量の問題もある。英単語がイメージと化した量がどれくらいあるかということである。英単語が「イメージとして」どれくらいインプットされているかも、「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」が生まれるかどうかを決める。

 英単語と日本語単語の並列状態ではなく、英単語がイメージと一体化され、日本語単語を必要としなくなった状態が、必要な質である。その質でどれだけの量が蓄積されるかなのだ。それも「飛び跳ねるぐらいの嬉しさ」が生まれるかどうかを決める。

2014/07/25

飛び跳ねるぐらいの嬉しさで実感したのは、中3の時期でした

(掲示板「大風呂敷」過去ログ倉庫から)

【14943】根石先生 吉さん 投稿者:かた 投稿日:2009年10月12日(月)23時38分36秒

 私が根石先生とお会いし、根石先生のレッスンを受け始めたのは小学校6年生の時です。つまり・・・12歳!私は今21歳なので・・・時間というものは早いですね(^-^;)私の住む地域の公民館へ先生に来ていただいたり、私が先生の家へレッスンを受けに通ったり、電話でレッスンになったり、スカイプでのレッスンになったりと様々な形でレッスンを受け、今の状況に至るわけですが、私が「音読のおかげだ」と飛び跳ねるぐらいの嬉しさで実感したのは、中3の時期でした。このころは受験シーズンなわけで、様々な長文を読み始めるのですが、ある日の授業で突然長文がすらすら読みながら意味をとれるようになったのです!自分でも驚きました。「あ!読めてる!分かる!本当に!?」って。この時の気持ちは今でも全く忘れていません。そのときしみじみと「音読だ!」と感じました。授業以外にやる英語はレッスンが主だったので。そこから、英語が楽しくて楽しくて、レッスンを受けるのが楽しくて楽しくて!高校に入ってからも、ずっとお世話になりました。ネイティブの先生とのコミュニケーション授業の後に直接「あなた音がみんなと違うけど、外国で暮らした事あるの?」と質問されたことも。

 ですが、このあたりで「日本語の中で学ぶ英語の難しさ」を痛感し始めました。本当に話していないとすぐに錆びるんです。。。本当にびっくりするぐらい。あっさりと。早く。あれ?・・こんなだっけ?みたいな。そこからこの英語のレッスンに自分なりの意義を見つけ、今までずっと続けてきています。ここまで続いてきたのは・・・なんでしょう、日本語の中で英語を形にしようと、使える英語にしようとしていくのが楽しいからですかね!?教育学部の数学科にいますが、もちろん英語の免許も取るつもりです!子供達に音の大切さ。文法よりもまず音!という事を伝えていかなくては!!!教育現場に新たな改革を!!! (なんて言ってみたり♪)えっと、私が言いたいのは、日本語の中で学ぶ英語は本当に大変で難しいけれど、結局は自分でやらないといけないことだけど、今のレッスン方法でだいぶ力がついた!という事です♪

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2014年7月25日 コメント 根石吉久

 この記事が書かれてから4年が経った。記事が私と吉さんに向けて書かれているのは、吉さんがコーチ法を知りたがっていたので、Kのコーチをやってもらっていいよと私が言ったからである。吉さんはアメリカの大学を出られて、日本の会社で仕事をされていたが、英語のコーチ法に大きな関心を持っていた。
 Kは大学3年の時だったか、素読舎の初めての「無料過程」の生徒になったので、吉さんにコーチをしてもらえれば、逆にKの方から私がこういう場面ではこういう指示を出すという話が出ることもあるだろうと考えた。それを吉さんが私にフィードバックしてくれれば、それはこういうわけだと私から説明できるとも考えた。しかし、そんなフィードバックはなかった。

 Kが大学4年の時、吉さんは私に何の断りもなく、いきなりレッスンを放り出した。会社の仕事が大変だったからというような理由を後でKから聞いた。ふざけんなよ。そんな理由は、Kから聞くようなことかよ。なんで自分で俺に言わないのか。私は腹の中でぶち切れたが、その時は何も言わなかった。アメリカ帰りなんかには、よくこのテの者がいるものだが、この人もかと思った。
 今年になってからだと覚えているが、この吉という者は、掲示板「大風呂敷」にのこのこ出てきて、自分がやったことがまるでなかったことのように親しげな口調で私に語りかけた。のこのこ出てきてもらう必要はないこと、出てきてもらっても、まともに相手をするつもりはないことを返事した。
 その後は出てきていない。
 私は、切るべき者は切る。

ネイティブの先生とのコミュニケーション授業の後に直接「あなた音がみんなと違うけど、外国で暮らした事あるの?」と質問されたことも。

 Kが上のように書いたことは、Kが北信地方の高校に入学した直後のことだったとKのお母さんから電話で聞いたことがある。
 ALTの授業が終わったとき、ALTがKの席まで来て、Kに外国で育ったのかと聞いたのだそうだ。あなただけ他の生徒と英語の発音が違うとそのALTは言ったそうである。あなたの英語はよくわかる、どこで育ったのかと聞かれ、Kは、日本で育ちました、日本人の塾の先生から英語の音を教わりました、と答えたそうだ。先生のおかげですと、Kのお母さんは私に電話で感謝してくださった。

 Kは数学が得意で信州大学教育学部の数学の先生になる課程に入学した。
 信州大学は、学部全体で同一の英語の出題をしてテストをするそうだが、Kは学部全体で英語でトップだった。数学の免許だけじゃ、あんたの英語がもったいないから、英語の教員免許も取れと私はKに言った。
 
 もちろん英語の免許も取るつもりです!

 Kが上のように書いてくれたのは、私が英語の教員免許も取るようにと言って間もなくのことだった。
 数学科の学生が英語科の学生を抜いて学部トップになったということなのだ。
 まあ、長野県の中学の英語の教員なんかより、Kの方がずっと英語がわかるのは確かだ。素読舎育ちなんだから仕方がない。

 今頃、Kはどうしているんだろうか。
 無事、教師をやってるだろうか。
 
 教育現場に新たな改革を!!!

 なんてことをまともにやったら、まずまっさきに周りから干されるぜ。長野県の(長野県だけじゃないが)、中学あたりの英語の教師の英語力はとてもレベルが低いし、文部科学省に文句を言う度胸を持っているやつなんかほぼ皆無。

 素読舎の方法と学校の標準的授業との目も眩むほどの落差は、この記事を書いた時点でのKは知っているはずもない。現場に入ってそれを知るのだが、それを知った後のKはどうしているのだろう。実は心配しているのである。

 Kよ。本当に改革をやりたければ、学校の教師なんかやめて塾をやれ。学校の教室というところでは、本当には音読なんてできはしない。それっぽいことはやっているが、みんな偽物だよ。
 経済的な損得で言えば、学校の教師をおとなしくやってる方が多分得だ。
 素読舎はもうかんない。

 Kよ。それでも行き詰まって、塾やろうかなと思ったら連絡せよ。


<派生した語学論へのリンク>

元にあるのは「言いながら書きながら思う」こと








 

 
 

 
 



2014/07/24

文章を頭の中で考えずに、しゃべりたいことをまず英語で話しだしていた



(掲示板「大風呂敷」過去ログ倉庫から)

今週のできごと 投稿者:Piggy 投稿日:2010年10月16日(土)08時04分36秒


今週、イギリス人と半日一緒にいる、という私にとっては驚くべき体験をしましたので、書きたくなりました。学校でネイティブ・スピーカーと日常的に接している今の若い学生さんや、英語上級者は、何のこと?と思うかもしれませんが、私にとっては初めての体験だったのです。さらに先ほど、生まれてはじめて、ある共通の趣味を持つ人たちがつどうフォーラムにおいて、英語でチャット(ネットにどんどん書き込むことで、その場で文字でおしゃべりすること)をしました。

根石さんのレッスンをうけるようになって、1年半とちょっとです。最近急に、自分の中で英語が動き始めるのを感じていました。英語でメールを書いたり、掲示板やブログのコメント欄に書き込んだり。でも話したり、チャットをするところまで行くとは思いませんでした。

今までのことを簡単にお話すると、中学高校では英語は得意科目で、辞書をひいてパズルをとくようにして英語の意味がわかっていくのが好きでした。でもネイ ティブ・スピーカーに授業を受けることは皆無でしたし、LL教室もありませんでした。大学にはいってサークルで、あるアメリカ人をまねいておしゃべりする機会がありましたが、私は何一つわからず、何一つ話せませんでした。数人、ちゃんと彼女と話ができる学生がいて、どうしてそんなことができるのか私にはわかりませんでした。卒業後の専門は理系分野です。専門の文書なら、だれでも卒業後数年経てば、辞書なしで情報を得ることができるようになります。専門用語さえわかっていれば、情報を得るのに不自由はないのです。でもあいかわらず私は話せませんでした。専門のことさえ話せないのです。専門用語を羅列するだけでは、話す時には何も伝わりませんから。専門分野で書く機会もときどきありますが、これは何とかなるのです。でもパズルであることにはかわりはなく、単語をあっちこっちからとってきて、くみあわせていました。

話す機会からは逃げ回っていました。逃げるのに疲れて英会話教室でプライベートレッスンを6年くらい前に半年くらい受けましたが、何かが身に付いたという実感はまったくなく、敗北感だけでした。

そういう私が、挨拶と自己紹介以外は実際の場面では英語で話したことがなかった私が、今週イギリス人と半日すごして、文章を頭の中で考えずに、しゃべりたいことをまず英語で話しだしていたのです。先ほどはとにかく文章を考えつくままに頭から書いては、ネット上でおしゃべりをしていたのです。

もちろん、今週イギリス人と話していたときは、とつとつとしゃべり、山ほどの間違いをしました。でも、時々文章まるごとがするっと口から出て来たり、あるいは文章はとぎれても、文章中の固まりは固まりとして出て来たりするのです。適切にとっさに返答できたりするのです。チャットになると、さらに文章は短く単純になりますが、単語をあっちへやりこっちへやりしていては会話に追いつかないし、実際に目の前にいれば文章が終わるのを待ってくれるけれども、チャットではこちらがキーボードを打っているのは相手にはみえませんから、時間勝負です(私への質問の時は、私の答えを待ってくれますが)。それがちゃんと文章として頭から打てるのです。

何がこういう変化をもたらしたのか。一つは英語の「型」が発音ごとからだにしみこんだこと。もう一つは、英語のイメージが自分に身近になったこと。英語の文章が持つイメージ、ということでしょうか。これは「型」と同じことかもしれません。「型」が持つイメージ。根石さんがおっしゃる「語法」とはこのことで しょうか。そして、ここ数ヶ月の「つなげて」「もう一段とつなげて」が、ものすごく効いているように思うのです。もちろんそれまでのことがあったからこそ の効果でしょうが。「つなげて」がはじまってから、自分の中で英語の「型」が、自分のものとして動き出した、という実感があるのです。以前何度もきいてい た映画の音声の意味がすっと入って来て、驚いたりしました。きくことに関しては、解像度があがった、という感じです。

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2014年7月23日 根石からのコメント


 このデータには2010年に Piggy さんが書いて下さったことがわかるタイムスタンプがある。もうあれから4年も経った。

 Piggy さんに特徴的なことは、大学受験の練習の仕上がりが非常によかったということが一つある。

 しかし、受験英語で作った英語力は、そのままでは「話す・聞く」にはまず使い物にならない。Piggy さんもそうだったのである。単語の数などはかなりなものに達しているのに、音が違っているから使えないということが一つある。それともう一つ、英語のシンタックスが意識に内在化されていないということがある。

 『ここ数ヶ月の「つなげて」「もう一段とつなげて」が、ものすごく効いているように思うのです』と Piggy さんは書いて下さった。これが「シンタックスの内在化」の技法の一つである。これは当時そういう言葉で Piggy さんに説明したかどうかは忘れてしまった。

 この記事が示しているのは、うまく仕上がった大学受験英語に、素読舎の「音づくり」が組み合わされたらどういうことが起こるのかということなのである。

 Piggy さんは大学の先生である。掲示板に何度か書いて下さった時も、ご自身が大学の先生であることを明らかにされることはなく、私がそれがわかるような記事を書くと非常に気にされているのがわかった。本名を明らかにするわけでもなく、専門分野を明らかにするわけでもなく、大学名を明らかにするわけでもない記事なのだから、何をそんなに気にされるのか私にはわからなかった。

 素読舎は、初めは中学生、高校生を相手にして始めた英語塾だった。塾を始めたころはネットなどもなく、そんじょそこらの受験用の英語の塾だと思われていた。そんじょそこらの受験塾に大学の先生が通うなどということは考えられもしないことだ。それはそうだ。

 インターネットが普及して、「大風呂敷」という掲示板を作り、日本人の英語の問題を論じている間に、いろいろな人が記事を書かれ、その中には私のレッスンを受けてくださった方が何人もいる。、掲示板に記事を書かれた方も書かれなかった方も含めれば、英検1級をお持ちの方、大学病院の医師でアメリカに研究のために渡ることを予定されていた方、日本の国家公務員の方で、やはりアメリカに数年滞在し仕事をされることを予定されていた方など。
 高校の英語の先生は、これまでに四人受講されている。(一人の地元の方は、「スカイプでレッスン」の生徒ではなく、長野市の「ゆいまある」という喫茶店を借りてやっていた教室の生徒。)

 大手電機会社の社員で頻繁に外国に行かれる方は、例えば中国に行かれた時は、ホテルの一室からレッスンを受けてくださったりもした。アメリカで仕事をされた日本の国家公務員の方は、帰国後もレッスンを継続して下さった。

 素読舎のレッスンは非常に地味である。上級者の方や、各種方法を試されてうまくいかなかった方や、実際に英語を使って仕事をされている方のほうが、素読舎の地味なレッスンの価値をわかって下さる。単に英会話幻想を持っているだけの人より、よく練習もする。

 例えば、大手電機会社の社員でレッスンを受けて下さった方に、職業を書いてもいいですかとか、ベトナムに住んで5年ほど仕事をされていた時期があることなどを書いてもいいですかとお聞きしたが、そんなことはいくら書いてもらってもいい、会社の名前だけ出さないでくれればいいとおっしゃったことがある。
 Piggy さんが大学の先生であることが明らかになるのを嫌がったのは、広い意味では教育界の人だからなのだろうか。大学の先生が、ただの田舎の英語塾のレッスンを受けているなどと世の人々に知られたくなかったのだろうか。
 一向に構わないではないかとどうしても思ってしまう。大学の先生が英語をしゃべれないことはいくらでもあることだし、田舎の英語塾をやっている者が、そんじょそこらにはない「語学論」を持っていることはありうることなのである。インターネットは在野と大学を結ぶのである。大学の先生であることなど気にされないで、普通にレッスンを受けていただきたい。

 知識的には英語はちゃんとやったんだけど、いまだにしゃべれないんだという大学の先生がおられたら、今後も素読舎に連絡をいただきたいと願っているのである。そのためには、Piggy さんが英語をしゃべり始めた頃のこの記事は貴重なのであり、Piggy さんが大学の先生であるということをお知らせすることも必要なことなのである。

 Piggy さんは所期の目標は達成され、素読舎を巣立って行かれた。




2014/07/22

学校は「音づくり」をやっていない


滅びる英語 


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48. 学校英語で音作りに励んでいます(その1) 投稿者:Eliot  投稿日: 6月24日(日)13時40分21秒


 学校英語は滅びる英語。本当にそうです。ほとんどの学校と塾の教室で行なわれている英語の授業は生徒を欺いています。英語を教えると言いながら、その場限りのくだらないことをやっていることが普通です。英語の音作りを激しく、厳しくやっている所は極めてまれだと思います。実際、英語の教員の多くにとって英語の発音は、できれば避けて通りたい弱点です。自分自身が通じるレベルの音が出せない教員がたくさんいますし、そこそこ通じる音を出せる教員もその多くが英語の音作りに必要な知識を体系的にルール化して生徒に教えることができません。例えば、根石さんが示しておられるような、音と音がぶつかり合ったときの音の消失とかいうことも生徒に説明できるような知識としては持っていないのが現状です。


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 (20140723)

 これは、掲示板「大風呂敷」ができてすぐに柴田さんという学校の先生が書いて下さった記事である。柴田さんは、中高一貫の英語の先生で、英語音に関する多くの知識をお持ちの方だった。掲示板に登場して下さった最初の記事の一行目に、「私は根石さんのホームページの大ファンです」と書いてくださったのを今でもはっきり覚えている。

 この記事に書かれたような学校の英語の扱い方は今でも変わっていない。
 私は当時から言ってきた。このていたらくは、アメリカの音声学の直輸入をそのまま教えているような大学教員を野放しにし、日本人に特化した「自前の音づくりの方法」を無視しているような文部科学省のおさぼりが根本の原因である。
 野放しにされている大学教員と文部科学省の英語を担当している役人とは癒着しているのだ。英語教育の世界にも「原子力村」のようなものがあるのである。そのせいで、日本在住のままで英語をしゃべり始める人は皆無に近いようなていたらくが続いているのである。




幼児英会話は役に立たない


 2014/07/22現在の、素読舎のレッスン実況録音のファイルに付けたコメントです。
 音声ファイルはありませんが、英語の音に関して素読舎がどんな考えにもとづいてレッスンしているかを知って頂けると考え、転写致します。

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音の足腰がしっかりしてきた


 そういえばこの子はずいぶん音がしっかりしてきたなと、レッスン途中で気付いたので録音した。

 以前にこの子の練習を録音した覚えがある。村田君に頼んで「対比」という名前の容れ物をつくってもらい、以前に録音した音声ファイルと今のものを対比して聴けるようにしてもらうつもりである。

 この子は素読舎のレッスンを始める前に、ネイティヴが講師をしている小学生用の英会話教室に通ったとお母さんから聞いている。

 幼児あるいは小学生くらいまでの年齢の子供はネイティヴの音を簡単に真似することができる。これは口の筋肉が日本語によって固まりきっていないから起こることだが、このうまい真似は非常に浅いところの口の筋肉を使っている。口の筋肉が柔らかいのと、非常に浅いところを使うことによって生じる音である。

 簡単にしかも正確に音を真似ることができるが、口はすぐにまた元に戻ってしまう。その子の日常の言語が日本語であるから、英語の音はすぐに抜けてしまう。

 その子の日常の言語が英語であるなら、放っておいても問題はない。10年20年というけっこう長い時間がかかるが、音は少しずつ筋肉の深いところまで根を張るようになる。(だけど、その子の日常の言語が英語であった場合、親が子供を英会話教室なんていうけったいなものに通わせることをするはずもない。英語ネイティヴの音なんか、そこらに石ころのように転がっているからだ。)

 私は昔から同じことを繰り返し言ってきた。
 口の筋肉のごく浅いところで英語の音をつかまえた子供が、普段日本語で生活しているのであれば、英語の音は簡単に抜けてしまう。中学くらいになって、高校入試の準備だとか、なんだかんだやっているうちにすっかり抜けてしまう。学校が放置するカタカナ発音になって、それが定着していったりする。

 そういう子が素読舎のレッスンを始めた場合は、「しっかりと下手になる」とも言ってきた。素読舎のレッスンは、「口を大きめに使って引き締める」とか、「動きを浅くしないでつなげる」というような指示を出すが、これは口の筋肉の比較的深いところを動かそうとするからである。
 幼児英会話で身につけた音など、半年か一年で「しっかりと下手になる」。そして、立体的な口の動きが新たに作られてきて、ようやく本当の英語の練習用の音ができてくる。

 この練習用の音は、そのまま使える英語の音につながっていく。

 録音した生徒も一度はしっかりと下手になった。今の状態は、そのトンネルを抜けた状態である。

 この先、まだいくつかのトンネルはあるが、ひとまず最初のトンネルは抜けたのである。日本人が持つべき「使い物になる英語用の口の動き」の元になるものはできてきている。

 しっかりと下手になった時は、浅い音が壊れかけた状態なので、赤飯を炊いてお祝いすべきだとどこかに書いた覚えがある。

 この生徒は、浅い口の動きが壊れた後、さらに最初のトンネルを抜けた状態なので、二度目の赤飯を炊いてお祝いしていい状態である。

 この音なら使える。
 英米人に聴かせてみれば、答は一発で出る。

 口の筋肉のごく浅いところに宿り、普段日本語で生活しているせいで、英語の音の「ア系列」がめちゃくちゃに入り乱れたり、あるいはもやしみたいに弱い音になったりした子供の英語音と、素読舎の訓練を経て最初のトンネルを抜けた英語音とを両方とも英米人に聴かせれば、素読舎育ちの音が断然いいと彼らは言う。

 「それっぽい音=浅いもやし音」をありがたがっているのは日本人だけだ。

 いずれは、8語から10語程度の文の「入れ替え・変換」をやらせることになるが、それをやってみても、口が浅い筋肉でつかまえただけの音はほとんどまったく使い物にならない。つまり、幼児英会話は役に立たないのである。それが役に立つと幻想してしまうのは、「磁場」ということが理解できないでいるからなのである。日本にまともな語学論がなかったことが祟っている。

 毎日毎日、日本語をしゃべっている日本人の子供の場合、英語音は訓練しなければ身につかない。
 幼児英会話なんかに通っても通わなくても、そのことに何の変わりはない。
           
(転写後保存.txt から)

2014/07/21

大学入試用「入れ替え・変換」


 大学入試用に素読舎の「入れ替え・変換」というレッスンを使えば、まともに参考書一冊を隅々まで読み込み、理解したのと同等の力がつく。いや、それ以上の力がつく。

 素読舎のレッスンには絶えず「音づくり」が伴うので、大学卒業後に使える英語が残るからだ。単に大学に受かっただけで、使えない英語をつかむ人が圧倒的に多い。ほとんどがそうだ。これは絶対的な損である。トランプで言えば、ババをつかんだままなのだから。

 日本の近代以降の学校制度は、英語に関してはババなのだ。


                   (語学論の掲示板「大風呂敷」から)
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 大学入試用に「入れ替え・変換」を使うためには、高校1年の頃から素読舎を使っていていただく必要があります。
 素読舎は、音がまともでないままに大学入試用の知識を扱うことはありません。
 「音づくり」には、ほぼ2年ほどの時間が必要です。高校3年生が「音づくり」と受験準備を1年でやろうとしても、とうてい時間が足りません。
 従って、高校3年生あるいは大学受験生が申し込まれた場合には、例えば「駿台受験シリーズ SYSTEM 英単語」のような市販の受験用の本を一冊だけ扱い、素読舎が独自に開発した「入れ替え・変換」「まともな音でインプット」というような教材は扱いません。
 この場合に駆使されるのは「音づくり」を組み込んだ素読です。
 これで受験を乗り切っていただき、使える英語と大学受験で獲得した知識を統合するのは、大学受験以後になります。大学に入ってから二つを統合することになります。






20140721

昨夜ずっと起きていて、3つブログを作った。

Mコーチが素読舎の仕事をやめたいと言いだし、私はそれを迎え入れた。願ってもないことだ。

何を頼んでも必ずと言っていいほど、やった仕事に穴がある。
あるいは、言われたことしかやらない。これを直すんなら、これも直さなければいけないなというような気は回らない。放っておけば、必ず仕事の質を劣化させる。その事に関して、まったく平気であり、平気なつらをする。その平気なつらを、私はいつの頃からか激しく憎み始めた。てめえ、なめんじゃねえというような言葉をMに浴びせたことが何度もある。

こちらが激怒すると、しおらしくなる。そして、続けて仕事をさせてくれと言う。そして、そして、そして、何度でも仕事を劣化させる。

この人を理解することはできない。あまりにも、娑婆の普通ってものを知らない。こんな者の世話を焼いて消耗する体力で、もっと本来やるべき仕事ができる。

もう関係は切れたのだから、切れたうえで引き継ぎをやるだけだ。
Mの作ってきたホームページは引き継がない。
ずうたいだけであり、見通しが悪く、人はろくに読んではくれない。手を入れるなら、作りなおすしかない。そんな手間はもったいなくて使うことはできない。

やれと言ったことしかやらない。やったことにやたら穴があいているから、怒れば怒られた場所だけを直す。こちらは、ひとつの例として話していただけで、同じ性質の穴は数え切れないほどあいている。急に全部直せないにしても直していけ、それよりも、こういう穴をあけないようにして仕事をしていけと言うために一つの例を提示しただけなのに、直すのはその提示された例についてだけである。馬鹿らしくてヤッテランナイ。

そんな世話を焼くために、ホームページを作って自分の生徒を獲得していけと一つの仕事を任せたのではない。しかし、世話を焼くことがいつになっても減らないので、私がMの小間使いにさせられた。

新しいブログは、Aさんという人に相談してなんとか立ち上がりそうだ。
データを移し終わったら、Mが作ったホームページは消滅させる予定だ。
胸くそが悪いので、いじる気になれない。

このブログは、Aさんのおかげでなんとかこうして書き込むことができるところまでこぎつけた。Aさんには、なんかすごくうまいものを食わせたいと思う。ありがたかった。