2017/02/28

英語をやる? だったら、

英語をやる? だったらまともに語学をやる以外にない。まずは音だ。音が駄目なら、全部、駄目だ。だって、語学だぜ。言葉の音を無視したら、語学にならない。


学校に行っている人たちも、学校が終わった人たちも、「英語をやる」という言い方をすることがある。「英語をやる」というのは、どんなことをヤルのだろうか。
 多くが、「学校のテストの点をとる」とか、「高校入試に受かる」とか、「大学入試に受かる」とか、「英検○級をとる」とか、「英会話学校に通う」とかいうことを言っていると思う。
 これらをヤル人たちが、気づかないでいるものがある。
 やっていることが、語学になっているのかということである。

 ヤルことのレベルが低すぎる場合も語学にならないし、方法が的外れでも語学にならない。量をかせぐことを惜しんでも語学にならない。

 ヤルことのレベルなら、レベルを上げることができる。だが、方法が的外れであることに気づかないことや、量を自分一人でかせぐことが欠かせないことに気づかないで、「教わればわかる」などという迷信から抜けないでいるのは致命的である。絶対になんて言いたくないが、語学は絶対にものにならない。

 高校入試に受かるとか、大学入試に受かるというのは、点数ががその高校や大学に受かるレベルに達するということであって、ある一定のレベルが想定されている。

 英検○級をとるというのも、その級のレベルが想定されている。
 学校のテストの点をとるというのも、平均点はどのくらいでそれをどのくらい上回るとかなんとか、偏差値がどうだのこうだの、学年の上位何位以内に入るだの入らないだの、そういうレベルというものを想定している。

 それに対して、英会話学校に通うというのはレベルを想定していないように思われる。しかし、それもやはり「想定している」のである。
 学校や入試で点をとることばかりやらされたが、ちっとも英語をしゃべるようにならなかった。少しはしゃべれるようになりたいというようなことを思っているとしたら、「しゃべれるレベル」というのが想定されているのだ。

 それがどんなことか皆目見当がつかないにしても、「しゃべれるレベル」があって、それを獲得することを想定しているのである。英会話学校に通ったことがあるような人はみんなそうなのだ。
 日本にいて、毎日を日本語で暮らしている人が、日本にいたままで英語をしゃべるようになるためには、金を出して人にどうにかしてもらおうとか、いい学校に入ればなんとかなるかもというような気楽な考えを捨てることだ。
 日本にいたままで英語をしゃべるようになるのは、極度に難しいことだとは、教材販売会社(speed learningみたいなもの)や英会話学校(NOVA とか)の商売人たちは口が裂けても言わない。それを言っちゃったら、金がもうからないから。

 NOVA に通った人で、それだけで英語をしゃべり始めた人になんて会ったことがない。そんな人がいるとはとうてい思えない。もし、しゃべり始めた人がいたなら、その人は、ガイジンをアテにせず、一人になって激しく語をイメージに変えた人だ。口や手をとことん使って、語になじみ、架空の時空を生き抜いた人だ。その時空を「語学で突き抜けた」人だ。そういう人ならいるかもしれない。
 そういう人が、NOVA とか、何でもいいが、英会話学校やら英会話教室に通っていたとしたら、金がもったいなかったねという冗談で済む。あなたがしゃべり始めた肝腎な原因は、あなたが一人でやったからなんだ、だから NOVA やら英会話学校やら英会話教室に払う金は必要なかったんだね。根本は、あなたが一人で、「語学でつきぬけた」ことがあったからだ、と。
 それがありさえすれば、いきなり英語で道を聞かれたって、対応できた。

 存外、語学はオタクと呼ばれて馬鹿にされている人たちに向いている。

 サザンの桑田に言わせれば、
 「真夜中育ちの民よ、頑張るのだ!」ということだ。

 英会話学校に通う人たちは「しゃべれるレベル」というものを想定はしているが、そのレベルがどういうものなのかまるで見当がつかないということがやはり問題だろう。単に外から眺めて、英語をしゃべる日本人がいるということがわかっているだけであって、その人の中に何が起こっているのかは見当がつかないということが問題なのだろう。

 この問題になると、実は「学校のテストの点をとる」、「高校入試に受かる」、「大学入試に受かる」、「英検○級をとる」という場合も実は同じなのである。
 
 テストの点をとるということと、英語が使えるということとはまったく別のことだ。いくらテストや入試で点がとれても、「日本語で育った人なのに、日本だけに暮らしてきた人なのに英語が使える」ということがどういうことか、その人の中に何が起こっているのかを知ることはできない。いくら学校の点が取れても、そのことはわからない。
 アメリカとかイギリスとか、カナダでもニュージーランドでもいいが、いわゆる英語圏で暮らした人も、「日本語で育った人なのに、日本だけに暮らしてきた人なのに英語が使える」ということがどういうことかはわからない。
 そのことがわかるということと、学校で英語という科目の点がとれるということや、外国暮しが長くて英語がペラペラだということとは全然関係がない。
 そのことがわかるというのは、語学というものがどういうものかという考察を経ているということなのだ。つまり、私が長年言い続けてきた「語学論」に相当するものを持っている人だけなのだ。そのことがわかるという人は。

 TOEIC の点なんかじゃ、とうていわかりっこない。なにしろ、軸足がアッチなんだから。日本人の体を無視してるんだから。

 学校のテストでいい点をとることが、使える英語を手に入れることになるのだと、なんとなくぼんやりと信じられているだけなのである。ずっとそれが続いているだけなのである。
 そんなことは、全然関係がない。
 「高校入試に受かる」も「大学入試に受かる」も、いい学校だと世間で認められている高校や大学に合格するレベルに達すれば、それがそのまま使える英語に結びついていくのだとなんとなく信じられているだけのことなのである。
 何の根拠もない。

 そんなことはありっこないという結果が、周りを見回せば、すでにはっきり「具体例だらけ」なのに、人々はなんとなく「いい学校に入れれば」と信じているのである。

 いい学校を出た人なんて、身の回りにいくらでもいるでしょ?
 学校の先生なんかそうでしょ?
 日本だけで暮らしてきて、英語をしゃべるようになった先生なんて、どれだけいるっていうの?
 英語の先生だってそうなんだよ。まして、他の教科の先生は、まず間違いなく全員そうだよ。どの先生だって、受験科目の中に英語はあったんだよ。
 ろくにしゃべれないの。日本だけで暮らしてきた人は。

 学校なんか何の関係もないのに、なんとなく関係があるかのように信じてしまっているのである。秩序や序列が好きな人たちに信じ込まされてしまっているのである。

 いい学校というのは、世間における権威である。
 なんとなく信じているのは、その権威を信じているのであって、他に何も、その信仰の根拠はない。
 あるなら言ってみろ、と言いたい。

 日本の中だけで通用する学校の序列など、世界は問題にしていない。問題にしているのは、話が成立する相手かどうかだけだ。

 トーダイ出の人の英語を見下げたガイジンなら何人も知っている。「何言ってるのかわかんねえんだよ」とやつらは言っていたのだ。アメリカへ戻れば、ただのあんちゃんやねえちゃんが、日本でトーダイに入るのにどれほど苦労するかも知らないまま、ただ単純に馬鹿にできてしまうのである。
 トーダイ生のせいではない。これまで一度だって英語の音をまともに問題にしてこなかった文部科学省のせいなのだ。「原子力村」と相似形の「英語村」というのがあって、その村の村民たちは、文部科学省の役人なんかと割と仲良ししている。村民たちは、大学教授とか呼ばれている。

 長年、語学のレッスンで生活してきた私からすれば、トーダイだのワセダだのケーオーだの、そんな権威はまったく信じるわけにはいかない。ワセダやケーオーは私立のくせに、国家から補助金のような金をもらうことを考えている。その時点で、私立の名折れなんだとは思っていない。誰が国なんかが出す金を受け取るかよ、っていうものがなければ、私立ってものに何の意味があるんだ。日本人て、国家主義者だらけなのかよ。ネトウヨみたいな国家主義じゃないにしても、国から金をもらおうなんて根性じゃ駄目だよな。

 どんな高校や大学に合格しようが、それがそのまま使える英語に結びつくことはない。まずは、そんなことはないということを腹におさめることが必要なのだが、多くの日本人にはそれができない。国家に飼われるのが好きというか、国家がかもしだす空気に対して不用心なんだわ、日本人は。
 そんで、国家が後押ししている幻想にしてやられているんだわ。いつまで経っても。

 日本国家の文部科学省が牛耳る英語教育では、知識の量は変化しても、感覚レベルのことは何も変化しない。金輪際、変化しない。いくら外人教師を増やしても、変化しない。

 世の中には信仰ばかりがのさばっている。日本在住のままでは、感覚は変化しない、と。
 向こうに住まなきゃ駄目だ、と。
 現象的にはその通りさ。
 だけど、日本にいたままでやるべきことがある。日本にいてもやれることがある。
 それをやれた者だけが、「英語世界に飲み込まれただけ」という事態を回避する。

 教育行政の話はひとまず置いて、英語の話に戻る。

 英検の級ですら、1級で「使えない英語」ができてしまうのを何度か目撃した。

 私はこれまでに英検1級を持っている人三人にレッスンした。どの人の英語の音も作り直した。

 使える英語というときに、その大元になるものは音であるが、その「元の元」というべきものが、三人ともすべて自己流のものであり、直さないと駄目だなというものだったのである。三人のうちの一人は、ほとんどすべて作り直す必要があった。まったく自己流の音で練習を続けていたのである。
 こりゃ、通じないわ、という音である。それでも、昔は英検1級に受かったのである。多分、英検をやってる側(旺文社?)も、少しはわかったことがあったのだろう。音に関して厳しくなってきている。今なら、あの音では合格しないだろう。

 英検一級を持っているほどの人なら、当時の(そして現在の)日本で英語を攻めるときの方法に関心がなかったはずはない。その人たちですら、英語の音に関してはただ自己流にやるしかなかったのである。犠牲者達なのだ。文部科学省と大学の!

 日本には、まだ、まともな語学論が成立していないのである。日本は先進国づらをした後進国にすぎない。
 安倍晋三が何を言おうが、真っ赤な嘘だと思っていた方がいい。

 いい高校だの、いい大学だのに合格しただけの人、あるいはそれらを卒業しただけの人に、「元の元」になるはずの音が備わることはない。これが備わるためには、英語の音は「子音が喉から(母音から)独立している」のに対して、日本語の音は子音が喉から独立していない、つまり、「いつも喉に依存している」という根本的な違いについての認識が普及しないかぎり無理である。当分、無理である。素読舎の生徒が減っていく間は、無理である。そのうちに、素読舎は存在しなくなるだろうが、一筋の望みをかけて、ネット上にこの文章を公開しているのである。

 何度でも言おう。
 大学の罪である。
 本当は問題がどこにあるかを指摘し、根本を変えようとしなかった大学人の根性無しが、しゃあしゃあと先生づらをしていられる日本の教育行政が駄目なのである。

 坂本龍馬は泣いているに違いない。日本がこんなもんになっちまうなんて、と泣いているに違いない。
 同じ土佐でも、龍馬を裏切ったのがいるからな。
 吉田茂とかいうのがいるからな。

 私が高校や大学にいた頃は、吉田茂は過去の人ではあるが、一流の人だった。とんでもねえんだ。吉田は日本国の首相として、アメリカの大統領とでなく、アメリカの「軍」と交渉したのだ、吉田は。
 日本国の総理大臣が、アメリカという国家の大統領に相手をしてもらえないで、アメリカ「軍」と交渉したのだ。ふざけんなっての。

 つっぱねるべきだったんだよ。「軍」とじゃ話にならねえよと、つっぱねるべきだったんだ。

 『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(矢部宏治 集英社インターナショナル)という本を読んで、吉田茂が二流の人間だというのを知った。

 日本人よ、なさけなくねえか。何百万という規模で日本人が戦争で死んだ。その上、吉田はアメリカに平伏し、密約を交わしたのだ。国家の責任者ではなく、国家の枝にすぎない「軍」と。
 二流だった吉田茂。坂本龍馬は泣いている。俺のモウソウの中で、泣いている。

 どうも、話が英語そのものからズレる。悪い癖だ。
 俺、改め、私は、早稲田大学の教員養成課程で、高校の英語科教員になるための単位をすべてとった。書類を提出すれば、当時の美濃部都知事の名前の入った英語科教員免許が手に入ったはずだ。
 そこで、俺は、私は、やめた。
 要らねえよ、日本国家なんかが発行する、キョウインメンキョは。

 大学でどんなことが行われているのかは知っている。もう何十年も前のことだが、本質的な部分で現在でも何の変わりもないのだろうと思っている。

 英語科教員養成課程では、「英語音声学」という単位をとる必要がある。この単位をとるための教科書というものが、アメリカ人が書いた音声学の本なのである。

 アメリカ人が英語の音に関して書いた本には、日本語で育ち、日本語で口の動きを自然化した日本人の口の動きを、英語用にどうするのかという観点はない。それがないということを日本人はほったらかしにしてきたのである。落ち度は日本人の側にある。これに関しては、現場の英語科教員にも落ち度がある。

 この音は日本語の音を流用できるとか、この音はまったく新たに口の動きを作らなければ駄目だとかというような区別もない。「何をどうするのか」という具体的な指針となるものがまるでない。アメリカ発の「英語音声学」なんかを習った人たちが、日本の学校の英語科の先生になっていて、そのことを何とも思っていない。

 英語の授業の現場というものと、「英語音声学」とは肉離れを起こしている。大学で勉強させられる「英語音声学」と授業の現場とは関係がない。だから、日本人のくせに、日本語で育った生徒の口をどう動かすべきかについて、学校の英語の先生たちはまるで何も知らない。

 私が大学を出て以後、学校ではAETとかALTとかいうものを採用しはじめた。現在、どの学校に行っても、英語圏から来たセンセイがいる。これは、何を意味しているかというと、文部科学省の元にある諮問機関が、日本人の英語の音は、外人を学校の先生に採用すれば解決すると考えたということなのである。あまりにも安易だと言うしかない。
 学校の教室で、外人の先生が一人いても、生徒の意識は日本語で動いている。「あ、やべえ、今度は俺がアテられるんかな」とか、日本語で意識が動いている。だから、外人の先生が一人いても、そこは英語の「磁場」にはならない。一応日本語が禁じられているから、カタカナ英語で応答したりしているが、馬鹿なお芝居にすぎない。生徒の意識がまるで日本語で動いている教室という場所には、英語の「磁場」という場はどこにもない。そこは、「隠蔽された日本語の磁場」なのだ。
 いくら決まり文句レベルの英語もどきが飛び交っていても、「日本語の磁場」である。

 AETやらALTを制度として運用し始めてから、すでに10年以上は経つのではないか。それで、日本人の英語の音はどうなったというのか。何も変わってはいない。何の変わりもないということが続いている。どれだけの国家予算の無駄づかいだったのか。

 私の近所の戸倉上山田中学というところに、AETとして採用されたエイミーという女の子が来ていたことがある。女の子といっても、大学を出たばかりの年齢だから、二十歳台前半だっただろう。日本のアニメやコミックが好きで、日本に来たかったのだと言っていた。ちょうど日本がAETを募集していることを知ったので、応募したら採用されたと言っていた。イギリス人である。当時、この子が日本語を習いたいというので、私は日本語の素読をほどこしていた。
 彼女は毎週一回我が家に来て、日本語を素読していた。
 ある日、エイミーと私とで雑談していたときに、中学校での英語の音の扱いについて私がたずねたことがある。
 AETとして、エイミーは学校の教室で、中学生の英語の音を直すと思うが、それで日本人の英語の音が直るかね?と私は訊いたのである。
 エイミーは口を結んで、私を直視した。
 そして、少し両腕を広げ、肩をすくめただけだった。
 何も言わなかった。
  Repeat after me. と生徒に言うんだろう?と私は訊いた。エイミーはそうだと言った。
  Repeat after me. じゃ直らないだろうというと、「直らない」とエイミーは答えた。

 このことをよくよく考える必要があるのだ。これはエイミー一人だけに起こっていたことではない。日本全国、どこの学校の教室でも、あるいはどこの英会話学校にも起こっていることなのだ。どこででも Repeat after me. は飛び交っている。どこでも使っている。でも日本人の 英語の音は変わらない。英会話学校に行っても、日本人の英語の音は変わらないし、もう10年以上もAETやALTが制度化されても、日本人の英語の音は何も変わっていないのである。

 例えば、apple の最初の音 [ae]を出させるのに、何度 apple を言ってみせても、何度でも「ア・ッ・プ・ル」という音が返ってきて、外人さんがお手上げになってしまうケースがいくらでもある。
 Repeat after me. を何度やっても同じことなのである。 だから、Repeat after me. が無効だと見極めて、他のやり方を工夫しようとした AET が果たしているのか? 寡聞にして、私は知らない。
 別の方法を探り当てるためには、英語の音の組成と日本語の音の組成の根本的な違いを認識しないとどうにもならないのだが、日本に来ているAETでその認識を持っている人に、一度も会ったことがない。

 日本人の英語の先生でも、その認識を持った人に会ったことがない。

 私はどうやっているか。

 「apple の最初の音だけどね、口の両端を斜め上にキュッとあげて言ってみて。タイミングを合わせて、口の両端が一番上にあがっているときに「ア」と言ってみて。」

 これでどの生徒もはっきりと音が変わる。すぐにまともな音が出せる生徒もいるし、半分くらい本来の音が混ざっていて、半分は日本語の「ア」であるような人もいるが、少なくとも必ず何割かの本来の音が宿るようになる。

 この[ae]の音を「一瞬般若」とあだ名をつけてあるが、「一瞬、般若の顔になれ」といういうことである。

 実はこの「口の両端斜め上」という指示は、一般的な英語音の参考書に書いてあるものとは違う。
 一般には、口の両端を横に引いて、「エ」と言いながら、顎を下げて「ア」と言うと説明されている。この説明だと、「エ」と言うことと「ア」と言うことの二つをやるように受け取る人が沢山いる。しかし、[ae]の音は、一つの音なのであって、最初から一つのものとして扱ったほうがいい。
 口の両端を横に引くことと顎を下げることを同時にやったときの口の開きは、上の辺が長く下の辺が短い台形のように感覚される。
 この台形は、実は「口の両端斜め上」という指示で一発で作れるのである。だから、「エと言いながらアと言う」みたいに二つのことを意識させる必要はない。ひとつのアクションでできる。「口の両端斜め上」でいい。

 「狭い音」と呼んでいるものもある。
 「狭い音」には二つあって、発音記号では[逆さe]と[逆さv]で表記されている。
 ここでは、[逆さe]のことを書くが、この音をちゃんと出す人はとても少ない。私のレッスンの生徒でも、この音を直さないで済む人は非常に少ない。
 この音は、直すというより、新たに作る必要があるのだが、この音を特別に意識する必要があると思っている人はとても少ない。
 これなんだ。これをちゃんと出さないから、日本人の音はわけがわからないと、アッチの人は言っているのだ。肝腎要の音なんだ。

 日本人の口ではどういうふうに現象するかというと、例えば、card と curd を同じ音で発音してしまうということが起こる。どちらも、日本語の「アー」で代用してしまうのである。
 card の ar は、日本語の「アー」で代用しても、誤解を引き起こすことは比較的少ない。しかし、curd を言うのに、card と同じ音とか、日本語の「アー」で言ったらまず間違いなく誤解される。
 本当は、両方とも日本語の「アー」とは違うのだが、card の方が日本語の「アー」に近いので、こっちの方が比較的、誤解に結びつくことが少ないのである。

 card の ar の音は、私のレッスンでは、「歯医者」というあだ名をつけてある。小さい子供が歯医者に行って、「はい、口をあけて」と言われると、顎を大きく下げながら「アー」という声を出す子がいる。そのときの「顎の下がった明るいアー」が英語の ar の音なのである。この「歯医者」の音は、英単語の綴りの中では、「アクセントのある ar 」として現れることが圧倒的に多い。(アクセントのない ar は curd の ur と同じ音になる。例えば、dollar のアクセントは o のところにあり、 ar にはない。この場合、つまり「アクセントのない ar」 は「狭い音」になる。)

 curd の ur は「狭い音(狭いアー)」だと言っているが、この「狭い」というのが実はやっかいなのである。英語で育った人は、口の中で舌を持ち上げて、舌と口蓋の丸天井の間に息の狭い通り道を作るのである。これがいきなりできる日本人はとても少ないので、私は次のように言う。
 「初めは、唇の開きをごく小さくしてアーのつもりで言って下さい。そうすると、こもった感じのアーの音が出ます。それが狭い音っていうときの狭さの感覚、狭さの感じなんです。その狭さの感覚をつかむことが大事です。しばらくの間、唇の開きを狭めることで狭さの感覚をしっかり感じて下さい。
 その感覚がはっきりわかると、口の中で舌を浮かせて狭い息の通り道を作ることができるようになります。それはそのうちに自然にできるようになります。最初に狭さの感覚をちゃんとつかむことが大事なんです。それができると自然に英語で育った人と同じように舌が動き出しますが、狭さの感覚がつかめないと、いつまでたってもこの音は出せません。まずは唇の開きをごく小さくして確実に狭い音を作って下さい。意識的に作って下さい。語学というものは、意識的にやるもんなんですから」

 この「狭い音」に関しては、二段階方式なのである。「一瞬般若」の[ae]に関しては、二つのことを意識させず、一発で出せることに重点を置くのだが、「狭い音」は、なかなか一発で出せる人がいないので、つまり、口の中の舌の動きを説明することが極度に難しいので、二段階方式にしてある。

 初めに感覚を持つ、そして口が動くようになるのを待つ、という二段階方式である。

 あくまでも日本人にとっての難度というものが基準なのであって、その基準は、AETにも英会話学校の教師をやっている外人にもわからない。
 日本人の英語の先生にもわからない。日本人の英語の先生は、まるでアメリカの方ばかり向いてて、日本語の音の独特な音の組成に関する認識を持っていないからである。日本人で、しかも、日本語の音の組成と英語の音の組成の違いをはっきり意識し認識している日本人にしかできないことがあるのに、その認識を持っている英語科の教員はまずいない。いるべき教員がいないのである。会ったことがない。
 
 card の ar は「アクセントのある ar」で、dollar の ar は「アクセントのない ar」である。アクセントの有無によって、同じ綴りがまったく違う音になる。
 これをはっきり意識した後だったかどうか記憶がはっきりしないが、多分、後だったのだと思う。
 四十歳台の頃、信州中野の村の神社に付属する建物を使わせてもらって、村の子供たちに英語の手ほどきをしていたことがある。その途中で、そうか、「あいうえお」を使えばいいのか、とひらめいたことがあった。
 日本人が苦手な「狭い音」は、「あいうえお」をローマ字表記して r をくっつけた綴りで圧倒的に多く現れると気がついたということである。

 「あいうえお」をローマ字で書けば、

 a  i  u  e  o

 となる。このそれぞれに r をくっつければ、

 ar, ir, ur, er, or

 となる。
 これらをすべて、ひとまず「狭い音」としてしまっていい。ただし、ar の場合だけは、アクセントがあると、まったく別の「歯医者」の音になる。
 これに気づいたとき、現在、「あいうえおフォニックス」と呼んでいるものができた。「あいうえおフォニックス」は、信州中野の神社で生まれたものなのである。

 「あいうえおフォニックス」を生徒に説明するときは次のように言う。

 「紙とボールペンを用意して下さい。あいうえおを間をあけてローマ字で書いて下さい。そのそれぞれに r をつけて下さい。ar, ir, ur, er, or になります。ar の上にもうひとつ ar を書いて下さい。上にぽつんと一つだけある ar はアクセントのある ar です。park とか、card の中の ar です。その下の ar はアクセントのない ar です。dollar の最後の ar です。で、ar, ir, ur, er, or というふうに横に並んでいるものを、芋虫みたいな横に長い丸で囲んで下さい。横に長く、縦に狭い丸で囲まれましたね。これが唇の形です。つまり、唇の開きを狭くしたときの息の通り道の形です。狭いアーです」

 この説明の後、何はともあれ、息が狭いところを通るときの「アー」の音の感覚をしっかりつかんでくれ、そうすれば、そのうちに英語ネイティヴと同じように、口の中で舌を使って「狭い音」が出せるようになるという二段階方式の説明をする。

 そして、付け加える。er の下に、それがひっくり返った re を書いてください。この re が日本人の耳に 「アー」とか「ア」とか聞こえる場合、here とか picture の最後の re だけど、この re は音としての正体は er と同じなんです。たいてい母音や半母音の後に現れます。er と書くと母音を表す音が連続して、どう発音すべきかわからないことになるから、母音や半母音のうしろで re って書くだけで、正体は er なんです。音としてはね。案外、英語の音の表記も理論的に正確なんですよ。
 それとですね、「あいうえお」のローマ字表記に r をくっつけたというのは、母音に r をくっつけたってことなんです。日本人になじみのある「あいうえお」を使ってみただけのことで、実は「母音+ r」って構造なんです。ar,ir,ur,er,or の5つの他に、6つ目のやつを付け加えて、ar,ir,ur,er,or,ear にしてください。ear も「母音+ r」なんです。これで「あいうえおフォニックス ぷらすわん」のできあがりです。

 そして、最後に前提になっていることを言う。
 これは日本人にアーと聞こえる音で、実際は日本語の音の中にはない音なんです、と。日本人の耳がアーだととらえる音についての狭さと広さについての説明です、と。
 
 これで、card の ar と curd の ur の区別がしっかりできる。ここにたどりつくのに、英語の塾を始めてから二十年以上、インターネットを使ってレッスンを始めてからも数年かかっている。

 しかし、私がこれを言い始めてからも、まだほとんど一般には普及していない。
 そして、学校でも英会話学校でも、日本人の英語の音は相変わらずのままである。
 素読舎の生徒は減る一方だが、一方で、素読舎の英語音の扱いはこれまでの最高レベルに達している。世の中はまだ知らない。

 それは私が悪いのである。
 いくら口を酸っぱくして言っても、日本人のほとんどが聞く耳を持たないことに疲れ果てて、語学論を書くことをこのところずっとサボり続けていたのである。私が悪いのである。まあ、とにかく、疲れた。いや、疲れ果てた。まだ死んではいないから、疲れることができる。

(私が作ってきたレッスンの指示方法がどんなものなのかは体験して知ってもらうことができます。090-4181-5912へ電話して、「無料お試し」をやりたいと申し出ていただけば、使えるレッスン枠をお伝えします。いままで一度も出会ったことがないというものに出会うことができます。)

 話はレッスンでの指示方法に戻るが、これらのやり方が Repeat after me. と違うのは、口のどこをどうするかという具体的な指示が手短に与えられるということである。

 具体的な指示というものが Repeat after me. には欠けている。それが欠けていたら、日本人の口の動きが変わるわけがない。

 Repeat after me. はこれまでずっと日本人には無効だったのである。無効なのに、外人さんたちは、それで済むと勘違いをしつづけたのである。日本人の英語の先生たちも、英語をしゃべるガイジンさん達の方が偉いと思いこんでいるので、何も変えることができなかったのである。あの外人さんたち、国に帰れば、ただのあんちゃん、ねえちゃん達だってのに。何も言語に関する認識は持ってないんだってのに。日本の英語科の先生たちは、なにをヘイコラしているんだろう。いやいや、ヘイコラには理由があるのだった。日本の英語科の先生たちは、日本語で育った日本人の体を無視してきたのだった。やるべきことをやらないので、外人に丸投げするしかないのだった。自前で方法を作れない人たちだったのだ。

 Repeat after me.がまったく無効になるほど、日本語の音と英語の音の間には大きなへだたりがある。
 つまり、Repeat after me. ではどうにもならないへだたりがあるということなのである。

 数えて見たことはないが、私はレッスンで「どこをどうする」の具体的な指示を二十くらいは常時使っている。週1回、わずか30分のレッスンだが、2年くらい経つとどの生徒も、始めた当初とはまるで違う音を口から自然に出せるようになる。逆に言えば、週1回30分のレッスンでは2年くらいかかるということである。
 週1回なら、せめて1時間はやりたいが、教材をすべて手作りするので、経済的に30分でないと無理なのである。できることなら、生徒一人あたり、週1回なら2時間はやりたいとも思う。いや、3時間あればレッスンだけでも何とかなるかなと思う。しかし、あくまでも語学論的にではなく、身も蓋もなく、経済的に無理なのである。

 なにもかも一人でやらなければならない。体力的に、経済的に絶対無理だという線が出てくる。
 文部科学省や大学のオサボリのせいで。
 私は音とイメージの一体化を自分の課題にしたいのに、いつまで経っても音だけにとどまって指示を出し続けなければならない。
 文部科学省や大学のオサボリのせいで。

 素読舎の指示方法が確立するまでに、塾を初めてから二十年以上かかったと書いたが、塾を始めてからほぼ四十年かかったものがある。

 それが、「喉ではない、口だ」である。

 NHKあたりの講師が、このページを読んで、盗んで言い出すかもしれないので、今日の日付を書いておく。17/02/26 。
 かつてNHKの英語講座の講師が、私の「回転読み」を盗んだことがあるのだ。日付を書いておけば、どっちが作ったものかははっきりするだろう。
 誤解されると困るので言っておくが、NHKだの大学だのの講師やら教師やらが、民間で開発されたものを使うのは構わない。金を出せとは言わない。しかし、せめて、クレジットくらいは入れろよな、と思う。しらばっくれて、自分が開発したような顔で、しゃあしゃあとNHKでしゃべってんじゃねえってんだよ。

 さてさて。何度も話を戻さなくてはならない。
 日本語の音には、ンの音以外は、どの音にも母音がくっついている。「ニ」という音を長く延ばせば、「イー」という音に変わってしまう。これは、日本語の「ニ」には、「ィ」という音が含まれているということなのである。どの音にも母音が含まれている。それがよく現れるのが、日本語の歌である。佐渡おけさを音の通り書いてみると、

 はぁーー、佐渡へーーー、佐渡へーとぉ、くーさーきーもぉ、なぁびーくぅよ

 となる。

 「ー」で表記した部分は、「あー」「えー」「うー」「いー」などの母音の延びた音である。文字では「ー」という同じ表記だが、音はまったく別の母音である。

 これらは母音である限り、喉で発音される。つまり、日本語は実は「母音漬け」の言語なのである。だから、日本人が英語を発音しはじめた当初、要らないところに母音をくっつけてしまうという現象が起こる。
 I am a student. を発音して、 I am a studen「ト」 . というふうに、文の最後で余計な母音を言ってしまう現象は、日本語の音のどれにも母音が含まれていることによるのである。

 また、日本語で育った人は、英語を発音する場合に、「喉に頼る」ということが起こる。口をはっきり動かさない平板な音になる傾向がある。
 喉に頼った音、口の動きの浅い音が、日本語で育った人に共通する英語音の特徴なのである。これは、多分、英語で育った人には、「可愛い英語の音」だろうと思う。個人の用を足す分には「可愛い」で結構だ。しかし、会社の利益や損失に結びつく商談とか、国家の存続に関わる話をする場合には、あいまいな音や平板で誤解されやすい音では、結構で済まされない。そこまで規模が大きくなくても、「間を取り持つ」場面では、なるべく明確な音の方がいい。下手すりゃ、紛糾するんだから。

 すべての学校、すべての英会話学校が、日本語で育った人は「常時喉に頼る」という事実を無視し、放置してきた。

 私がやっているレッスンは、これまで日本におけるすべてのレッスンが放置してきたことに焦点を当てたものであると言ってもいい。

 生徒にもそこに焦点を当ててもらうための言い方はいくつかある。「口の動きが浅い」「だらだらと音を延ばさない」「喉が強すぎる」「喉から口の動きを独立させろ」「口の動きを引き締めろ」「無意識に引き締める力が抜けるから自覚しろ」などなど。

 これらの指示を一言で言えば、「喉ではない、口だ」ということになるのである。

 英語の文を言ってみれば、子音がまったく「喉から独立」して、口の音だけになっているところが随所にある。いわゆる「澄んだ音」と言われる子音のところでそうなる。「濁った音」と言われる子音のところは喉が震えるが、「澄んだ音」ではまったく喉の震えはない。
 つまり、まったく喉に依存しない。

 喉への依存が0%になるところが頻出する。これこそが、日本人にとっての難点なのだ。

 I am a student. の t のところでは、まったく喉が震えることはない。だけど、studenト、と言う日本人は多い。トと言うと、トに含まれる小さなォの音が喉を震わせる。その現象だけを指摘するものはあるかもしれないが、それがいったい「日本語のどういう性質に由来するものか」を言ったものは、今のところ私は知らない。
 
 日本語ではすべての音で喉が震える。ンの場合は、m の唇が閉じた音の場合もあり、n の唇の開いた音もあるが、どちらも喉半分、鼻の内部半分が震える。震えているのである、日本語は。

 ところが、英語の音は破裂する。

 日本語では、あらゆる音が喉に依存している。つまり、あらゆる音が、たとえ音としては小さくても、母音に支えられた音なのである。そして、母音はどの音でも喉が震える。だから、日本語をしゃべると絶えず喉が震える。いつも小さく震えている。震えていて破裂しない。

 独特の日本語音の影響が英語の練習をしている生徒の音に現れる。これまで、どの生徒も例外なく、練習中に喉に頼り始めるということが起こった。

 これに例外はない。

 日本語をベースにしているのであるから、喉から独立した英語音の子音(の連続)の音が、日本人には不自然なものなのである。
 不自然なものを不自然なまま持ち続けるのではなく、自然な方へ持って行こうとして、喉に頼ってしまう。日本人が自然に感じられる音の方へ変えてしまうのである。
 その結果、英語音から大きくはみ出す。

 この「喉ではない、口だ」を言い始めてから、生徒はどんどん減った。よっぽど嫌なのだろう。今後はこれに耐えられる生徒を募集するしかない。

 私にも覚えがある。中学一年生になったとき、NHKの「基礎英語」を毎日聴けと学校の先生に言われた。しばらく聴いていたが、「こんなこと言えるか!」と思って放置したことがあった。「こんなこと言えるか!」というのは、文が意味することを「言えるか!」ではなく、「これと同じように口が動くわけがない」という端的な感覚だった。

 その後、大学受験のとき、後に「回転読み」と名付けた練習方法を工夫したが、それを激しくやると、子音が独立してくるのがはっきりわかった。さらにそのずっと後、脳梗塞をやり、口が動かしにくくなってしまったが、それでも生徒の口の動きを変えるための指示を出すことはできるので、レッスンを続けているというのが現状である。

 モデル音を出してくれと生徒に言われることがあるが、やってみると口の動きが非常にもたつく感じがあり、口の動きが鈍いという感覚がある。それでも生徒よりは口が動くから、モデル音を出す。自分ではふがいない。大学受験浪人のときとは、雲泥の差である。ここでは脳梗塞の話をしているのではないので、そのことはひとまず脇に寄せておく。

 レッスンでの口の動かし方の指示方法の紹介をを交えて、音の問題について書いてみたが、英語の練習で扱うことは音の問題だけではない。
 しかし、音の問題を取り上げてみるだけでも、学校や英会話学校がやっていることがどれほどいいかげんででたらめなものであるかはわかる。学校のテストの点をとろうとしている生徒や、入試で一流どころをねらう生徒が、音の問題をちゃんと扱っていないこともあぶり出すことができる。

 日本における英語の未来は暗いのである。
 もしかしたら、真っ暗かもしれない。

 日本にいて英語をしゃべるのは、ほとんどすべて、英語圏で生活して帰ってきた人だ。日本にいるという条件の元、あるいは日常的に日本語だけ使うという条件の元、つまり、「日本人が在日のまま」まともに英語をしゃべり始めたやつなんているのか?

 ハワイ大学の教授だかになった人だって、会社に行けば商取引で英語をしゃべらざるを得ないところにいた人なんだ。電話では、毎日英語でしゃべるのが普通の生活だったのだ。両松本と並び称された人だけどさ、醜男でないほうの松本だけどさ、あれも「日本にいた」という条件下、英語をしゃべり始めたが、実は、私が言う「磁場」に毎日入っていたんだ。地理的には日本にある会社で、英語の「磁場」に。
 「磁場」という一語が、「日本にいたまま英語をしゃべり出した」という醜男でない方の松本の成立の種明かしをやれる。語学論で「磁場」と言い出したのは、俺が最初だけどね、これを言うと、種明かしができてしまうのだ。

 最初に「英語をやる」とはどういうことなのかと書いたが、音をいいかげんに扱って、英語をやっても、「英語をやる」は成立しない。

 まあ、しかし、英語の練習に必要なのは、音だけではないので、いったんは音の問題を離れることにする。
 あらゆるものをイメージ化するのが語学なんだということを別に書くことにする。
 実は、こっちの方が、日本人が英語を使えるようになかなかならないことの原因としては、音の問題より大きいものなのかもしれない。