swim の m を n で発音してしまう生徒がいて、直すのに苦労している。直しても、すぐに逆戻りさせ、Do you swin? と発音してしまう。 これは日本語の「ん」のせいなのだろうか。 「ん」は英語音の方から見れば、m の場合も n の場合もある。 「さんま」の 「ん」は m であり、「そんな」の「ん」は n である。 「さんま」の m は、次の「ま」で m音を使うから現れる。 「そんな」の n は、次の「な」で n音を使うから現れる。 Do you swim? を Do you swin? としてしまうときに、次に n音を使うのではないのだから、なぜだかわからない。こういうときは、本質を言うほかはない。m は唇を閉じる音、n は唇を開く音、と本質を言う。それを言っても、生徒は m を n で代用してしまうから、レッスンが終わってから一人で練習してくれと言うしかない。 次のレッスンでも、m を n で代用することがあれば、同じことを言うしかない。 m を見たら唇を閉じる「感覚」、n を見たら唇を開いた「感覚」にしないから、要するに「感覚」にしないから、m を n で代用することに逆戻りさせてしまうのだが、これは、レッスンで同じ文を繰り返させるせいかもしれない。 Do you swim? を繰り返させると、swim の m の次に Do の d音が来る。d音は、舌を上の歯茎の裏に当てる必要があり、その動きは n音と共通するからだ。 私のレッスンでは、単に繰り返しを要求するだけではなく、繰り返しの「激化」を要求する。 語学に繰り返しは必要かと問えば、誰でも「必要だ」と答えるだろう。 しかし、この「激化」を納得して実際にやる生徒は少ない。 だけど、「激化」をやらないと、リエゾンはわかっても、「黙音」の本質はわからないのではないか。これは、日本人の英語が英語のリズムを獲得すべきか、すべきではないのかという問題である。語学をやるんなら、すべきじゃないのかと語学屋は考える。 しかし、ぶあつい抵抗がある。日本語で育った日本人の体が抵抗する。 どうも日本人は英語が嫌いだ。 この「嫌い」は、英語への「あこがれ」と、どうやら表裏一体のものらしい。 m と n の違いを厳格にやる私のレッスンはもうじき終わるだろう。 日本人はそれをあんまり本気にしないから。