2015/12/30

「書きながら言いながら思う」について

(「まともな音でインプット」のための基礎工事)




 2015年12月19日、Kさんに初めての「無料お試しレッスン」をした。「無料お試しレッスン」は2ヶ月間やることにしてある。

 このレッスンは、例えば一年、二年とレッスンを継続してしてもらった場合と同じものを手渡せるわけではないが、私の方法の概要は手渡すことができると思う。中級以上の実力をすでに持っていて、私の語学論の骨子を受け取ってもらえれば、その後、自分でやる練習に活かすことができるだろうと思う。

 手渡せるのは、急いで手描きで描いた設計図のようなものかもしれない。

 「無料お試しレッスン」は、実際に私の方法を試してみてもらって、これは人に薦められるものだと思ってもらえたなら、周りに話してもらえればと考えて始めたものでもある。

 中級者であるかどうかのきわめて大雑把な目安は、人がねらって入る大学入試を経ているかどうかくらいだろうと考えている。英検の級で言えば、2級くらいだろうか。準1級の手前くらいだろうか。
 Kさんにどこの大学に合格したのかをぶしつけに聞いてみた。北海道大学だとのことだった。日本に住んでいるアメリカ人と友達だと聞いたこともあったから、意思の疎通がとれないというレベルの英語ではないということはわかっていた。

 このレベルの人は、わずかな自在さを増やすのに、結構大量の練習をする必要がある。

 しかし、そんなことは、本人に言った方がいいのか、言わない方がいいのか、よくわからない。
 無我夢中でやっていて、気がついたら新しいレベルを獲得していたというのが一番いいのかもしれない。面白くなってやっていたら、結果的に大量の練習をやってしまっていたというのが一番いいのかもしれない。
 しかし、Kさんをレッスンするのは2ヶ月しかない。その場合には、なるべく早めに「体を使う語学」という行為に自覚的になってもらう方がいいと考えたので、初日から結構いろんなことを言ってしまった。
 語学論めいたことを言っても、わかってもらえたのかどうかよくわからない感触を持つことが多いのだが、Kさんにはすんなりとわかってもらえたと思う。

 「書きながら、言いながら、思う」という練習の説明をしていて、「思う」というのはイメージを思うのだと言い、書くという体の動き、言うという体の動きで、語や語法になじみを作るのだと話した。
 「書きながら」で、体の動きの中にイメージを溶かし込み、綴りという文字の塊とイメージを一体化する。
 「言いながら」で、語の音とイメージを一体化する。
 「思う」というのは、綴りや音と一体化すべきイメージを思うんだという話をした時、Kさんが、「何かがあるから、単語が・・・」と言った。自分が英語を話す時に、自分の中に起こることを言っているんだとわかった。

「何かを思うから、言葉が動くという場合の『何か』をイメージって言ってるわけです」

と言ったら納得してもらえ、すんなりと片付いてしまった。普段なら、ここが一番説明しにくいところなのだ。

 「書きながら言いながら思う」というのは、「単語を覚える」と言われていることと重なる。今回は、そのことに焦点を絞って書く。

 長年英語の練習法を人にしゃべってきて、「単語を覚える」ということの実質がどういうことであるべきかに自覚的な人は少ないと思っている。
 例えば、apple という単語を覚える場合を例にしてみる。
 「書きながら言いながら思う」では、appleを紙に書きながら音を言うのだが、発音する速度は書く速度に従う。自分の手が書く時に、生じてくる文字の動く速度と同時化させて発音する。
 手が動く方が口が動くのより遅いから、「言う」スピードは抑え気味になる。手がなめらかに動くようになるのに従って、口の動きもなめらかになっていく。

 何回くらい書くんですかと質問されることがあるが回数は決まっていない。その質問に対しては、ソロバンの例え話をする。ソロバンの上手な人は、次は人差し指だとか、次は薬指だとか、指の動きをいちいち意識することはない。指が勝手に動き、数をはじき出してしまう。指が勝手に動くこと、自動的に動くということが大事であり、英単語を「書く」場合にも、それと同じレベルになるまで繰り返すことが大事なんだと話す。a の次は p だなどと意識するのではなく、apple という文字を、自動的になめらかに「ひとつながり」に書けるようになるまで書く。

 やっていることは、「書く」だけではなく、「書きながら言いながら思う」なので、「言う」ことも「思う」ことも繰り返される。

 「書く」に合わせて「言う」ことには違和感はないかもしれないが、「書く」に合わせて「思う」には違和感を持つ人が多いかもしれない。とりわけ、「同じこと」を「思う」ということに違和感を持つ人が多いのではないかと思う。しかし、ここが重要なポイントなのである。
 「思う」というのは「イメージする」ということなのだが、例えば、appleという文字を「書きながら言いながら思う」ときに、同じイメージを何度も思うことをいとわないことが大事なポイントなのである。

 それは語学特有の意識の使い方なのである。これは実は馬鹿みたいなことなのだが、この馬鹿みたいなことをちゃんとやるかやらないかで、語学の成否は決まると言っても過言ではないと思う。

 話が細かくなるが、apple という文字に対応させるべき「イメージ」は、初心者は、「日本語の語のイメージ」であっても「語が表す『もの』のイメージ」であっても構わない。apple なら、「りんご」という「語のイメージ」でも、「りんご」という日本語の単語が喚起する「赤い、丸い、酸っぱい、果物」のイメージでも構わない。
 黄色いりんごもあるから、黄色じゃいけないのかとか、酸っぱいというより甘酸っぱいんじゃないかとか、人によって「誤差」はある。そういう誤差が含まれることは構わない。誤差が含まれるかどうかより、誤差を含んでいようがいまいが、それが「イメージ」であるかどうかが一番大事なことなのである。
 apple に対して、「赤い、丸い、酸っぱい、果物」ではなく、「黄色い、丸い、甘酸っぱい、果物」でも「最初は」構わないということである。いわゆる「誤差の範囲」なら何でもいい。
 apple に対して、「赤い、丸い、酸っぱい、果物」ではなく、「赤い、四角な、酸っぱい、自動車部品」を思い浮かべたら、誤差ではなく、はっきりした間違いだ。
 しかし、この間違いも、語学をやっているから間違いなのであって、先端的な現代詩を書こうとしている人が「赤い、四角な、酸っぱい、自動車部品」をイメージしたって間違いでもなんでもない。
 語学だから間違いになるのだが、語学でそんなふうに間違える人はまずいない。

 そういう間違いはないとしても、「イメージ」の代わりに、いつまでも「語そのもの」を使う間違いは無数の人が冒している。「語そのもの」と「語が喚起するもの」が区別されていないのである。

 肝腎なことは apple に「『りんご』という語そのもの」を対置しただけで済ませてはならないことである。これは、いくら強調してもしすぎることはない。英語がものにならないとボヤいている人のほとんどすべてが、この「間違い」を冒している人たちではないかと思うくらいに、この「間違い」は多い。

 apple という英単語と「りんご」という日本語の単語を、両方とも「単語のまま対にして覚える」ということから抜け出さない人が多いのである。

 一番最初は、「りんご」という日本語の「語そのもの」を apple という英単語に重ね合わせるのでも構わないのだが、「書きながら言いながら思う」をやっている途中から、「りんご」という「語のイメージ」か、想像上のりんごという「もの」を思い浮かべて、「書きながら言いながら思う」という体の動きに溶かしこむ必要がある。

 熱を加えて「ごった煮」にするんだと思っても構わない。手の動き、口の動きにイメージを溶かし込むことが心の動きになり、手の動きの感覚、口の動きの感覚、心の動きの感覚が全部一つの鍋(一人の人間)の中で「ごった煮」になる。「ごった煮」が煮詰められる。

 「ごった煮」がよく出来たかどうかは、apple という音を聞いた瞬間にイメージが意識に生じるかどうか、apple というスペリングを見た瞬間にイメージが意識に生じるかどうかでわかる。よく気をつけなければいけないのは、あくまでもイメージが浮かぶかどうかであって、「りんご」という日本語の単語が浮かぶかどうかではない。日本語の単語が浮かぶのでは、「ごった煮」はまだ煮足りないのである。

 日本在住のまま英語を練習して、ものにするかどうかは、英単語の覚え方における「語そのもの」と「語が喚起するもの」を区別してそれぞれ独立させることに基本がある。それぞれを独立させ区別した上で、一つの鍋(一人の人間)で「ごった煮」にしてしまうのである。英単語の音やスペリングとイメージが「ひとつのもの」として感じられるくらいに煮詰めてしまうのである。
 そのことで、英単語とイメージが合体した状態を作り、日本語の「語そのもの」は夾雑物として鍋の底に沈めてしまうのである。英単語の音やスペリングと(元々は日本語単語の)イメージをよく溶け合わせ、日本語単語そのものは鍋の底に沈めてしまうのである。

 英語の「語そのもの」には、手を動かし、口を動かしてなじんでしまうことができる。よくなじんでおいて、その体の動きにイメージ(元々は日本語の語が喚起したもの)を溶かし込み一体化してしまう。よく煮詰めて、英単語とイメージだけが合体した物質を作る。日本語単語そのものは不要になってしまった状態を作る。

 実はこの問題は、まだ奥がある。英単語である apple のイメージが、「りんご」という日本語から得られたもので本当にいいのかどうかという問題である。

 いいのだと私は断言する。

 日本在住の普通の日本人、つまり日常的に日本語で暮らしている人のことだが(私もその一人だが)、この人たちの中の英語の初心者や中級者は、日本語の語からイメージを得ることから始めるので当然なのである。つまり、英和辞典から使い始めるので当然なのである。
 もしそれが当然でないとすれば、小学生や中学生に「英英辞典から使い始めよ」と命ずるのと同じことである。これは極論すれば、日本に生まれ日本語で育った子供に、「お前がアメリカに生まれなかったのが悪い」と決めつけるようなものだ。それがどれほど馬鹿げた命令であるか、人々ははっきり気づいた方がいい。

 ここは日本語の磁場なのだ。

 日本語の語からイメージを得ることから始める以外に、「ごった煮」を煮詰める方法はない。もう一度極論するが、初めから英英辞典が使え、英和辞典が使えない子供は日本人ではない。私は「日本人」という語をそう定義している。

 英語でのコミュニケーションを唱え、外人に触れさせておけば、日本の英語の問題が解決するかのように振る舞っている学校現場などは、経済界・産業界の要請に従っているだけのものだ。
 コミュニケーションを唱える者たちは、日本語からイメージを得て、イメージを独在させ、英単語に「移住」させ、イメージに日本語の「語そのもの」を脱皮させるというプロセスの全体を無視している。日本在住の普通の日本人が誰でもやれる「普通のこと」が無視されている。「イメージの独在」を言う語学論がどこにもない。その点において、現代の学校の英語の扱い方そのものが、経済界・産業界の僕(しもべ)に過ぎない。もう少し進むだけで、奴隷にすぎなくなる。

 日本語の語からイメージを得ることを大きく肯定することの要点は、イメージは変容するということにある。

 「書きながら言いながら思う」の「思う」において、同じイメージを何度でも思うのだと書いたが、実はこの時に、手の動きがなめらかになればなるほど、口の動きがなめらかになればなるほど、あるいは正確になればなるほど、イメージは音やスペリングと一体化しやすくなり、そのことで少しずつ変容する。
 「書きながら言いながら思う」のプロセスの中でもイメージは変容するし、いったんその単語を覚えてしまった後にも、いろいろな別の文で同じ単語に出会うたびに、イメージは変容していく。変容することで、イメージは純化する。夾雑物が鍋の底に沈んでイメージが純化されるのである。そうして、英単語としての「語のイメージの核」が備わっていく。つまり、語学という行為は「語のイメージの核」が備わるまで語のイメージを変容させ続けることでもあるのだ。

 だから、心配することはない。
 最初は日本語の単語から得たイメージを英単語と合体させることでまったく構わないのである。日本語の単語をきっかけにして得たイメージであることを心配するより、それが本当にイメージとして独在しているかどうかが肝腎なことである。語を「語そのもの」のままに放っておかずに、片っ端からイメージに変えることが最重要なことである。「語そのもの」(スペリングや音)とイメージがどれだけ緊密に一体化されているか。それがもっとも肝腎なことなのである。

 そのためのごくシンプルなやり方が、「書きながら言いながら思う」なのである。

 と、以上のような細かい話を、短いレッスン時間の中でKさんにできたわけではない。
 だから、これはKさんにした話の補足を書こうとして書き始めたものなのだが、役に立ててくれる人が他にもいるかもしれないとも思った。そんなことがあることを期待している。

2015/07/18

どんづまりの小路なのか

日本語の生理にぶち当たる




 雨。
 語学論をどうするんだと自問することがときどきある。「仏頂面農法」だけでせいいっぱいだと思う一方で、語学論をこのまま放置しておくわけにはいかないと思う時がある。
 雨かと思い、少し書いておくかと思ったのだが、この先を書き続けることができるかどうかはわからない。

 ここ1、2年ほど、レッスンで「喉じゃない」「喉から力を抜く」というような指示を多発するようになった。それまでは、「個々の音」を直すことと「連音処理」しか扱わなかったが、ここ1,2年は、「力点の置き所」を扱うようになった。

 これはどんづまりの小路を奥へ進んでいるようなものだなと思う。「個々の音」だけを扱っているだけなら、理解されやすい。
 いわゆる発音矯正は、単語単位で扱うものが多く、素読舎の「音づくり」とはその点が大きく違う。「文まるごと」で発音を扱わないと、「連音処理」(子音のぶつかり合いの処理とリエゾンの処理)が扱えないから、素読舎の「音づくり」は必ず「文まるごと」で扱う。それでも、半分程度までは一般の発音矯正と重なり合うので、理解されやすかった。

 「力点の置き所」を扱うようになって、生徒のとまどいが大きいのがわかる。「喉から力を抜く」と言われても、どうやってやるのかわからないと言う人が何人もいた。私にもわからない。抜けるときは抜けるとしか言いようがない。
 「喉から力を抜く」という指示だけでも、喉7割・口の筋肉3割くらいのバランスが、喉6割・口の筋肉4割くらいにはすぐに変わるので、ひとまずはそれでやるしかない。「喉から力を抜く」という言い方でほとんど変化がない人には、「口を大きく使う」「はっきり動かすことをやめない」などとまったく違う方向から攻めるように言う。

 「力点の置き所」を扱い始める時期も人によって違う。口をはっきり動かす人とあいまいな動かし方をする人がいて、あいまいな動かし方をする人には、しばらくは口をどんどん動かすことしか要求しないこともある。これは英語の練習以前の問題であり、日本語をしゃべるときに、歯切れがいい人もいるし、もごもごとしゃべる人もいるという問題なのである。これは、人の性質にも直結しているものであり、実は語学にとっては大問題なのだが、その問題をすぐには持ち出さない。いつまでももごもごやってると、語学には不利だということを言うのは、口を動かすことにかなり慣れてきた頃だ。
 初めから歯切れよく口が動く人には、初期の段階から「力点の置き所」を言い、「喉で言わない」という指示を出す場合もある。

 「th は舌の先を上の歯の先・舌を口の中にひっこめるときのこすれる音」「l は舌が上の歯茎の裏にくっついている間だけ出る音・t や d と隣接しても音がぶつかり合うことはない」「子音と子音に挟まれた a は一瞬般若・口の両端斜め上」「t の直後が th の時は、t は th の位置に歩み寄る・歯の裏か歯の先の裏、あるいは th と同じ位置。そこで『黙った音』になる」等々の説明は、「個々の音」を扱うもので、これは何度かやっているうちに身に付いていく。説明法は素読舎が独自に練ったものであり、今も練っている。

 これらの「個々の音」だけを扱っている間はそれほど大きな問題はなかった。カタカナ発音に逆戻りする傾向はいつでもあるが、2年くらい練習すればほぼマスターしてしまう生徒が多い。
 「力点の置き所」はそうではない。逆戻りの傾向は、「個々の音」などよりはるかに強い。これは日本語で育った人の根源的な生理なのだと思うしかない。これはどんづまりの小路なんじゃないかと思うのは、それにぶち当たった時にいつも感じることなのである。

 「英語だって母音のところは喉を使う。喉を全然使わないなんてことはないんだけど、喉は必ず使うんだけど、練習の『つもり』としては、口の動きだけで言ってみるってことをやってみて」などと言ったりもする。それでうまく喉にこもる力が抜ける人もいるし、うまく抜けない人もいる。

 口の筋肉の動きそのものがある程度の強度を備えないとどうしようもないということが一つある。それに対しては、「回数を惜しまないで繰り返せ」としか言いようがない。結局そこに戻る。

 ここ1、2年で指示法が大きく変わったのは、口の筋肉の動きが「できてから」ではなく、口の筋肉の動きができていく「途中で」扱わないといけないと考えたからである。そうでないと、本人は「英語口」を備えていると思っていても、音の全体が「喉の響き」でコーティングされていて、英語の音の繊維、特に子音の繊維がぼやけたようなものができてしまう。私はひそかに疑っている。日本在住のまま作った「英語口」はほとんどすべてこれなんじゃないか、と。「喉じゃない、口を動かす」という指示を根本に据えた発音の扱い方が日本にはないんじゃないか、と。

 もちろんアメリカ生まれの「英語音声学」なんか何の役にも立たない。日本人がどれほど喉に依存して発音しているかという観点がひとつもないのだから。

 「喉じゃない」なんていう指示は、どんづまりなんじゃないかというのは、「喉じゃない」が非常に大事なポイントだということは理解されないんじゃないかと危惧しているということである。すでに問題点は発見されていても、少なくとも私が生きている間に片が付くということはないだろう。

15/07/18

2015/05/05

英検準1級合格お祝いインタビュー

英検準1級合格お祝いインタビュー


出席者

   高校1年生K(長野県)
  根石吉久(素読舎)
  小川住江(素読舎奈良分室)


根石 あ、俺、録音機のスイッチ入れるの忘れてたわ。今までの録音されてねえや。今、あわててスイッチ入れたけど、やべえな。(笑)
小川 高校生なら語彙を相当強化しないと、英検準1級合格は無理だと思うんです。
根石 小川さんに教えてもらって、ネットに掲載されてる準1級の問題見てみたんですが、普通の高1の生徒はまず合格できないですよ。
小川 1級だったら TIME とか、ああいう雑誌を読まないと追いつかないですし、準1級でも相当語彙はやっとかないと。
根石 ええと、録音してなかったところができちゃったんで、しゃべってもらったのを、今ちょっとメモしなくちゃなんないんだけど、K君は3,4歳の頃に白人の女の人が先生をやってた幼児英会話みたいな教室に行ってたと。小学校2年生の時に、Mコーチのところで素読舎の練習を始めたと。中学は××校で寮に入ってたと。土曜日に素読舎の「スカイプでレッスン」をやってたっていうのは、中学の時からずっとやってたの?
 そうだったと思います。
根石 その他に、Mの塾に寄れるときは金曜日に寄ってたと。
 はい。
根石 小学校5年生の時から、素読舎の「スカイプでレッスン」を使ってくれていて、今、小学校6年生の女の子の生徒がいるんだけども、そのお父さんが、昔やっぱり素読舎を使ってくれてた。娘さんの方が、最近、英検4級に合格した。K君の場合は、どうだったのかな。4級くらいから受けてたのかな。
 小学校の時に一回受けたことがあるような気がしますが、4級だったかどうか。
根石 さっきの小学校6年生の女の子のお父さんが、去年の暮にうちへ寄ってくれたんだけど、その時、お父さんに、英検を受験するなら1級までとっちゃうべきだと言ったんだ。ツブシが効くのは1級だけだよって言ったんだ。K君が準1級に受かったと話してくれたときに、準1級まで合格したんなら、1級は絶対に取っちゃった方がいいぜって言ったら、そんなに熱心に英検をやる気はないっていうような返事だった。準1まで受かっておいて、1級をとらねえテはねえよって、俺はそう思ってるんだけど・・・
小川 そうですよね。
根石 うん。だからそのへんを、1級を持ってる小川さんからこんこんと言ってきかせてもらって・・・(笑)
小川 文部科学省が言ってるんだと思いますが、高校の先生たちは準1級を取りましょうとか言われているんです。それが取れてる先生は3割くらいだと言われているんです。だけど準1級だと、学校の先生はともかく、世間では仕事できないんです。
 はあ。
小川 準1までは仕事ができるような英語ではないんですね。1級なら十分かと言えば、そうとも限らないんです。英語で仕事ができるというレベルでは、最低で英検1級ですね。1級を持って、それが入口だと思った方がいいんです。準1級と1級だと、二次試験も全然違うんです。準1級だったら4コマまんがのストーリーをしゃべるとか、その程度でしょう?
 はい。
小川 1級になると、テーマを与えられて、2分とか3分で自分の考えを言わなきゃならないんです。その後に、質疑応答があって、まあ難しい内容ですよね。私の時だったら、インターネットビジネスについてどう思うかとかね、小学校から英語を導入することについてはあなたはどう考えるかとか、少年法改正についてどう思うかとか、そんな感じのものですよね。だから、それぞれについて賛成の意見と反対の意見の両方を知っておかなければならないし、自分のスピーチに対して突っ込まれたら、言い返す力もなければいけないし。高一で準1級っていうのは本当に立派なんですけど、そこでやめちゃうと中途半端ですね。1級とってようやく、大人の英語の入口と思ってた方がいいですよ。
 なるほど。ありがとうございます。
小川 準1級だと、海外転勤で外国へ行ってもなかなか仕事ができないですよね。1級ならできるとは言わないですけど。
 うちの高校で、在学中に1級取ったのが一人だったか二人だったかいるんですが、推薦入学とか、そういうことのために取ったとか聞いています。
小川 一芸入学とかできる大学ってありましたですものね。今でもあるのかどうか知りませんけども。
 うちの高校の先生によると、推薦入学で大学に入るんじゃなかったら、他の科目とのバランスもあるから、1級は大学に入ってから取るんでいいんじゃないかと・・・。
根石 ああ、そういうことか。それなら、それでいいんだ。もし高校にいるうちに1級取っちゃえば、そりゃあ、いい宣伝材料になるから、俺はうれしいけどさ(笑)。他の科目とのバランスを考えて、高校にいるうちは1級はやめといて、大学に入ってから取るっていうんなら、それでもちろんいいさ。だけど、準1級でやめちゃうってのはねえぜっていうことさ。じゃあ、1級を頑張らない(笑)ってのは、高校のうちはってことで、大学に入ったら頑張ると。
 はい。
根石 それならいいや。大学にいる間でも、社会人になってからでもいいんだけど、社会人になったら、なかなか英語の勉強なんかする時間が取れないからね。大学にいる間がいいな。
 はあ。
根石 社会人になると、ほとんどの人の場合、がらっと変わっちゃうからね。なかなか英語をやる時間なんか取れなくなる。だから、大学にいる間にっていうのが一番いいんじゃないかな。
小川 勉強する時間が取れますもんね。
根石 うん。
 そうですね。
小川 私は2000年に1級を取ったんですけど、その頃は発音のチェックがなかったんですね。一緒に勉強して同期で合格した人たちには、発音の悪い人がいっぱいいるんですよね。最近は、発音をすごく重視してますし、発音をチェックしてますから、やっぱり素読舎でやってたら強いと思う。
 なるほど。
小川 素読舎の練習やってきて、英検の読解が楽だったことないですか。
 読解ですか?
小川 うん。逆戻りしないで、頭から読んでいけるとか・・・
 ああ、それはそうでしたね。準1でも、単語さえ押さえておけば、読むのは楽でしたね。
小川 私は1級を取ってから素読舎へ入ったんですけど、読解は確実によくなってるんです。素読舎の「イメージ核受肉教材」っていうのをずっとやってきて、Mさんと「自律練習」っていうのも続けてきたんですけど、なんていうのかな、どう言ったらいいのかな、頭から読んで逆戻りしないメカニズムができたというか。そういう訓練は英検1級受けるときもサイトトランスレーションっていうので、やったんですけど、素読舎のはそれとは別で、塊で入ってくるじゃないですか。
 はい。
小川 だから、読解はほんとに伸びたと思ってます。
根石 それは TIME 購読の教室に通うよりも、素読舎の練習の方がよかったということですか。
小川 はい、もちろんそうです。特に「イメージ核受肉教材」の後の方になると、長い文章がありますよね。
根石 うん。
小川 4語、5語、6語程度の短い文だったら、それがそのまま塊でわかるし、入ってきますけども、関係代名詞なんかでつながる長い文章になると、なんていうかな・・・
根石 逆戻りする・・・
小川 逆戻りする癖は残っていたんですね。
根石 うん。
小川 サイトトランスレーションていうのは、ぶちぶちに切って読むんですよ。小さな意味の塊で切るんですよ。
根石 その切れ目の数が少なくなったってこと?
小川 そうです、そうです。すごく少なくなったというのと、ちゃんと大きめな意味の切れ目で切るようになったというのと。それに、わからない文章があったら、まず音読してみるっていうのが癖になりましたね。10回くらい読んでみると、意味の切れ目が見えてくるんですよ。素読舎のレッスンは、リスニングが伸びるというのはよく生徒さんが言われますけど、もうひとつ読解が伸びるんですよ。
根石 うーんと、文の音を文字に直せば、文字は左から右に進むだけですわね。
小川 はい。
根石 ところが、素読舎のやり方は、同じ文を繰り返すから、文の最後でピリオドにぶつかると、読みは頭に戻る。意味の流れが逆流を起こす必要がなくなるんですね。また同じところへ何度でも回帰してくるから。もし逆流を起こしても、それが瞬間化するんですね。文の途中で目を右から左へ戻すんじゃないんです。そういうことはなくなるけれども、意識が逆流をまったく起こさないかっていえば、起こすわけです。日本人だから。
小川 ああ、はいはいはいはい。
根石 日本人だから、意識で逆流を起こすけども、何度も同じ文を読むから、逆流が瞬間化する。目で字を左へたどるってことはする必要はなくなる。文の右へ行けないで止まる瞬間があっても、それは瞬間で、またすぐ右へ行く動きに乗れるようになる。読みが同じところへ何度でも回帰するので、文の途中で目を逆戻りさせる必要はない。さっきわかんないところがあったなっていう場合でも、読みは切れないで、文の最後まで行き、また同じ文の頭に回帰して、新たに読みが始まって、さっきわかんなかったところにまた出会う。何回目かにわかったぞという場合に、英語の語順が壊されることはないわけです。その時には、意識で瞬間化された逆流が、さらに瞬間化されて、もう逆流ではなくなっちゃう。英語の語順のままで読めてるよ、ってことになっちゃう。
小川 ぶん回すというか、やるじゃないですか。その時に、目にも止まらぬ速さで逆流してるかもしれないですね。
根石 ああ、その、瞬間化したっていう場合の瞬間てのは、1秒なんて時間がとてつもなく長く感じられるくらいの時間ですよ。
小川 そうですよね。
根石 逆流に始末をつける一瞬てのは、1秒がひどく長く感じるくらいの短い一瞬ですよ。そういう一瞬を作ることに慣れちゃうと、まったく逆流を起こさないで読めてるって状態になっちゃうわけです。そういう状態になる前は、そりゃあ、意識は逆流を起こしますよ。日本語で育ってるんだから。K君、言ってることはわかるかなあ。
 一応、ついていってます。(笑)
根石 うん。話を前に戻すけど、準1級に受かったときの話で、英語を使う仕事につく気はないようなことも言っていたような気がするんだけど、今、それ、そう思い描いた通りにならないことがあるからね。例えばさ、日本国内だけで仕事できたのの代表格っていえば、建設業だよ、建設業っていうかゼネコンだよな。今、ゼネコンあたりが海外へ出てってるからねえ。工業製品の生産拠点だけじゃねえんだよな。例えば、バンコクでマンション建てるなんて場合に、動いてるのは何のことはねえ、日本の土建屋じゃねえかってことがある。土建屋は国内だけでもうけてるのの代表格だったんだよ。だからわかんねえよなあ。僕は英語なんか使うつもりはなくてこの会社へ入ったんですなんて言ってたって、お前来月から2年ばかりバンコクへ行ってこいとか、ハノイへ行ってこいとか、ありうるぜって思ってた方がいい。小川さんの言い方を借りれば、ひとまず英検1級合格を入口くらいに考えるのがいいと思うよ。まあ、俺が昔から言ってる言い方で言えば、英検でツブシが効くのは1級だけだぜっていうのも繰り返し言っておきたいよ。小川さんの場合でも、京都新聞がやってる英語教室の講師に採用された時でも、英検1級持ってるってのが決め手だったわけでしょ。履歴書にそういうふうに書いてあるっていうのが決めてだったんでしょ?
小川 そうです。それと通訳ガイド資格ですね。
根石 ああ、そうですね。
小川 だから、準1級だと、世間では英語学習中の人っていうふうにしか見ないんですね。
 へええ。
小川 1級だと、プロだと見てくれるんですね。
根石 俺は英検の級は3級も持ってないんだけど、英検は一回も受けたことないんで(笑)。そういう人間で、しかも普段は日本語しかしゃべってない。Uなんかが、福島の原発事故があって、オーストリアに帰っちゃって、アメリカに帰らないで、いよいよふるさとに帰っちゃったんで、あいつがいなければ、普段英語なんかしゃべる友達もいないから、しゃべる必要もない。もうまったく日本語だけで生きてる。そういうところから見ると、毎日仕事で英語を使ってる人は、俺なんかくらべものにならないくらい、はるかにしゃべるわけね。毎日使うことで、レベルは上がっていくしね。逆に、俺みたいに、使わないでいれば、しゃべることなんかは急速に錆び付くわけだね。例文の回転読みなんかやって錆び付いてくるのを防いではいるけどさ。そんで、準1級の人が1級取る時は、錆び付かせるわけにはいかない(笑)。俺、英検の級を持ってない者として、なんとなく勘で言うんですけど、英検の準1級の人が1級を取るときに使うエネルギー量ってのは、それまでに使ったエネルギー量ね、4級取った時、3級取った時、準2級とか2級とか、それぞれに使ったエネルギーってあるじゃないですか。
小川 はい。
根石 準1級の人が1級を取るのに必要なエネルギー量って、準1級までの全エネルギー量と同じくらいか、もっと多いんじゃねえかなって。
小川 そう思います。私が準1級を取った時っていうのは、英語塾で働いてました。高校生なんかも教えていたんです。準1級は受験勉強はしなくても一発合格できたんです。だけど、1級はものすごく苦しかったです。
根石 準1級から1年で1級に通ったんでしたっけ。
小川 1年に3回受験できますから、準1級を通った翌年の3回目の試験で通ったんです。ぎりぎり1年で通りましたが、苦しかったです。
 どういう勉強してたんですか。
小川 語彙は、その時は「パス単」を使ってなかったんですけど、英検準1級の単語集と、1級の単語集と両方使ってやったんですね。辞書を使って、覚えようとしてる単語が入ってる例文をいくつかノートに書き移して、音読したり覚えたりしましたね。同じ単語の類義語とか同義語とかも調べて、そっちの例文も書き写して、音読したり覚えたりしたんですね。その準1と1級の単語のリストは2千語でしたかね。
根石 両方で?
小川 両方でですね。???で出してる本で、千語と千語で両方やったんですね。準1の単語でも洩れてるものがあると通らないと思って。
根石 そりゃそうだ。
小川 ええ。それで2千語やって、それをやりながら TIME
の講読の教室へ行って、覚えた単語に実際の文の中で出会うことで根付かせるってことをやりました。その他に、CNN の English Express っていう雑誌があるでしょ。知りません?
 聞いたことはあります。
小川 その雑誌にはCDが付いているので、CDを使ってリスニングの練習をしましたね。ディクテーションしたり。
 うん。はい。
小川 逐次通訳の練習したりもしました。昼間仕事して、家に帰ってくると主婦ですから、ほんと苦しかったです。ほとんどユンケルロイヤル飲みながらやったんですね。血尿出るかと思った(笑)。
 準1を受けるのに、自分はあんまり勉強しなかったんですけど・・・
根石 素読舎のやり方で自分で練習したものが、そこまで行っちゃっていたってことだよ。
 高校の授業かなって思ってたんですけど。
根石 材料としてはそうだな。英字新聞とかね。それはもちろんそうだ。そのレベルの教材を相手にした時には、問題は消化力だよ。その授業受けてたのはK君だけじゃないだろう。俺は消化不良を起こしている生徒は少なくないと思っているよ。どこの高校でもそうだ。これねえ、はっきり言わせてもらうけど、世間の一流高校なんて言われてる高校では、どこでも起こっていることだ。昔の一流高校でも、新興の私立でもどこでも同じだよ。教材だけは、高度なものを大量に扱わせる。だけど、それで消化不良を起こしたんじゃ、実質は生徒の側に惨めさがあるだけだ。その惨めさという網にK君がひっかからなかったのは、消化力だよ。K君の探求心や、前に進もうとする意欲が根源だが、それを消化力にしたのは素読舎の方法なんだって、もうはっきりと言わせてもらう。K君は、おそらく学年でもトップだろう?
 ええと、考査の前の勉強はあんまりまじめにやんないので・・・
根石 ああ、いいこと、いいこと。それはとってもいいことだよ。
小川 (笑)
 だから、3位くらいなんですけど。
根石 いいことだよ。
 模試はけっこういいんですけど・・・
根石 そうそう。学校の外側の試験だと、明らかに上に出るわけだよね。成績じゃなくて実力だね。実力でトップでいいんだよ。成績なんか糞くらえだとまでは言わないけど(笑)、K君は成績がよくて実力がないというタイプではない。それがいいことだ。実力があれば、それでいいんだよ。ところが、今の時代はさ、成績がよくて実は実力がないっていうタイプが量産されてる。ろくでもねえよ。頭のいい馬鹿っていっぱいいるからな、今の時代。(笑)
 単語は高校の授業が役に立ったと思っているんですけど・・・
根石 そうそうそう。単語なんかは、どこに転がってるのでもいいんだけど、問題はさ、実際さ、単語をどうやって覚えてる?
 まず文章の中の覚えてない単語をリストアップして、B5の紙を縦半分に折って・・・
根石 ああ、そりゃ「シート」だ。俺の塾の昔の呼び名で言うと「シート」だ。今は「電圧装置」って言ってるやつだ。そのやり方はMに教わったんかね?
 そうですね。
根石 B5のレポート用紙を縦半分に折るわけね。
 はい。
根石 その場合、左側に日本語を書く。
 はい。右側ですけど。
根石 それは右でも左でもいいけどさ。どうせ折って、英単語が見えなくなればいいんだから。うーんと、そこからの話だ。そこからどうやってる?
 文章を読んで、学校で最後にやる単語テストみたいなもので、たいていは定着するんですけど・・・
根石 うーん。「電圧装置」は俺が考え出したんだけど、さっきのUだな。やつと話してたら、えーと、何て言ってたっけかな、忘れちゃった。なんとかシステムとか、ああ、ハーフ・シート・システムって言ってたな。ヨーロッパには、そのやり方があるんだね。みんなが普通にやってるみたいな話だったんだ。だけど、俺は自分で考え出したもんだから、今でも俺の考案だと思ってるけどね(笑)。そんでね、問題は「瞬間化」なんだよ。
 ああ、イメージがですか。
根石 そうそう。イメージになってないと「瞬間化」が起こらない。
 そうですね。
根石 一枚の紙に書ける単語の数って、13個から15個ぐらいのもんでしょ? 見やすいように、単語と単語の間を一行空けて書けば・・・
 そうですね。
根石 この「電圧装置」ってのは、一枚の紙に書き込んだら、別の紙で「言いながら書きながら思う」っていう下準備をするんだ。それをやってから、レポート用紙を二つ折りにして、日本語を見て英単語を「回答」してくわけね。そんときに、最初の単語から最後の単語まで、手がまったく止まらずにたてつづけに「回答」できちゃうってレベルになるまで、「言いながら書きながら思う」っていう下準備をやっとくわけさ。そんで、「思う」っていうところで、英語の音や綴りをイメージとしっかり合体させてないと、そんな具合にダーッと立て続けに回答して手が止まらないって具合にはならない。逆にそれができてる時は、日本語を見てるときでも、英単語と一体化したイメージが動いてるわけだ。イメージが「瞬間化」できてるというのは、日本語の単語が、瞬間的に英単語のイメージになるってことだ。立て続けに「回答」できて手が止まらないっていうのは、それぞれの英単語をイメージ化してないとできないんだよ。
 うん。
根石 何と言うかな。日本語の単語を見てるからっていって、日本語の単語やそのイメージを頼りにしてたんじゃ駄目なんだ。日本語の単語は、英単語のイメージを自分の中に生じさせるための、ほんのきっかけとして使うだけなんだ。で、そこまでやった?
 うーん。普段は時間がもったいないので、ペンを持って机に向かってっていうことはやらないんですよ。電車で移動中とか、そういう時にやるんですけど。
根石 それ、どうなんだろう。手で書いてやると、手が途中で止まるか止まらないかがはっきりするんだよな。
小川 脳にウェルニッケ野だったか、ウェルニッケ中枢だったかいうのがあるんですって。口で言ったのを字で書くとね、その中枢のところを信号が通過して定着が早いんですって。
根石 だと思いますね。
 えーっと、定着してるかどうかのテストがあると、「言いながら書きながら」っていうのをやっていますけど。
根石 1枚のシートを作ったときに、いきなりそれやっちゃえばいいんだよ。手が全然止まらずに、最初の単語から最後の単語まで立て続けに「回答」できるってので、最低レベルのイメージ化ができてるのかどうか確認できるからね。それでしばらく放っておいて、3枚一度に立て続けに回答できるようにしちゃうとか、記憶のレベルを上げることもできるしね。そんで、ちょっと違う話だけど、一枚の紙に一つだけなら、間違いがあってもいいってことにしちゃうの。
 はあ。
根石 定着しないものや、定着しにくいものはどうするっていう場合、そういうのを見つけたら、それを新しいシートに書き込む。1枚の紙に「間違い」が二つも三つもあるのを自分に許しちゃ駄目だ。3枚一度にやるんなら、全体から3つまでは許容範囲だな。許容数は1枚あたりでひとつだけって決めちゃう。1枚で二つも三つも「間違い」や手が止まるってことがある場合は、「言いながら書きながら思う」の練習が足りないわけだから、心を鬼にして、「言いながら書きながら思う」をやり直す。徹底的にやり直す。それで、もう一度、レポート用紙二つ折り、立て続けに書けて間違いゼロにしちゃう。その方がいいんじゃないかな。書いたからって、そんなにやたら時間がとられやしないぞ。それと、音とスペリングとイメージを書くことで一体化した場合、忘れるのが遅い。一度覚えたものが長持ちする。
 一番時間がかかるのは、「言いながら書きながら思う」なんで、それをやってる時に肝心なのは、「強度」だ。イメージの強度だね。それを作るのは、時間がかかってもきっちりやった方がいいんじゃないかな。目と脳だけでやるのと、どっちが早道かなあと思うんだわ。手も口も使って、手や口の動きにイメージを溶け込ませるというか、手や口の動きとイメージを一体化させるっていう方が、忘れるスピードに歯止めをかけるから、最終的にはそっちの方が早道なんじゃないかな。そういう「急がば回れ」はあるような気がする。手や口の動きとイメージを一体化させることだって、そのこと自体が上達するよ。うまくなればなるほど時間はかからなくなってくる。10回も言ったり書いたりすれば、ひとまず定着ってところに持ち込めるようになる。あたまの中をぐちゃぐちゃさせてるより、その方がいいはずだ。それは、「言いながら書きながら思う」っていうやり方自体に上達するってことがあるからだし、忘れることを食い止めることまで考えれば、いわゆる「急がば回れ」になると思うんだ。それとね、何をやるんでもいいけど、問題集を解くとか、学校の授業で使う教科書の文を読むんでも、英字新聞を読むんでもいいけど、そういうことをやっている時に、これは知らねえなとか、これは見たことがあるけど、俺の中に定着してねえなとか、そういうのをピックアップして、「電圧装置」に書き込むってのが基本だな。その方が有機的だわ。単語をまた文に戻せるから。
小川 文脈の中に単語を置くと、イメージがとらえやすいってことはありますね。
根石 うん、そうそう。
 あのう、準1の時に、先に受けた友達から、単語がやばいって言われたんで、準1の教本をやったんですよ。
根石 うん。
 やったんですけど、教本の単語が出ないんですよね。だったら、教本を出す意味があるのかと思ったんですけど。
小川 だから私、同義語とか類義語とかもやったんですよ。そうやって幅を広げておくと、やっぱり読んでたりすると出てくるんですよ。名前だけ知ってた人に実際に会ったりすると、もっと親しみが湧くみたいに、その単語が定着してくるんですよ。それと、やっぱり、文章ごと覚えないと、面接の時に、その単語を使わなくちゃならないから、語法ごと覚える必要があるんですよ。根石さんが言われるように、読み物をたくさん読んで、そこに出てくる単語を集めて覚えるっていうのは、イメージがはっきりするっていうのはその通りなんですが、受験ということを考えたら効率が悪いじゃないですか。類義語、同義語で単語を漁るっていうのは、効率のためですね。準1と1級の単語集ってのは、類義語、同義語を漁るための元にしてただけですね。教本は、単語のことだけで言えば、そこに出てくる単語を覚えたからといって、それが試験のときに出てくるとは限らないですよね。
 なるほど。
小川 私のやり方の場合だったら、2千語やったとしても、もっと増えるでしょうね。3千くらいとか。
根石 いやあ、3千てことはないでしょ。もっと増えるでしょう。
小川 もっと増えるかもしれないですね。それと、コロケーションてあるでしょ。この単語は体のことを言うのには使わないとかね、そういうのも、文ごと覚えるとわかってくるから。
 はい。
根石 たとえ文まるごとで覚えても、まだ無機的なんですよね。だけど、まったく違う文でまた出会うと、イメージの襞がわかるというか、細かいところが感じられるってことが起こる。その過程がイメージの核が確かになっていく過程なんです。イメージの核っていうのは、概念的に記述できない。それは生きてる人間の意識に感じられているっていう形以外に存在できない。それは、しかも、育っていくものであるし、変容するものでもあるし、確かなものになっていくものでもあるし・・・
小川 ああ、そうです、そうです。
根石 だから、単語を覚えるっていうのは、そういうプロセス全体から見れば、入口というか、そういうプロセスが始まることを可能にするきっかけに過ぎないというか。
小川 名簿でしか知らなかった人が、道で会ったりして話をしたら、ああ、こんな感じの人やったんやって、新しいことがわかるとか、そんな感じですよね。
根石 うん。「なじみ」の度合いが変わるんだよね。それと、英単語をイメージにするってことを強引にやったとしても、強引に作ったイメージが、それで本当にいいんかって問題はあるんです。だって、初心者や中級者の場合、イメージは日本語の単語を媒介にして作りますからね。それで、このイメージでいいんだとか、ちょっと違うなっていうことは、日本に住んでる場合は、練習用の別の文の中でまた出会うっていうことでしか確かめようがないですよ。生活の中で確かになっていくってことはないですから。英語の「磁場」でだったら、言葉の当事者になるから、この種の状況でこの単語ってこう使うのかっていうのが意識に刻まれる。状況込みだから、一種の身体感覚みたいなのが刻まれる。日本にいて英語をやっても、それはない。どんなに激しく語学をやってもそれはないんです。日本にいて日本語で生活しながらだったら、最初に強引にイメージにしちゃうってことは、誤差を含むことをおそれずに、机上で絶対にやる必要があるってことです。誤差を含んでいたっていいんです。別の文で同じ単語に出会って、イメージは深まったり変容したりして、イメージとして純粋化する。最初に誤差を含むことなんか恐れる必要はない。たとえ間違ってたって、イメージをはっきり作らないと何も始まらない。
 英単語と日本語単語の両方を覚えるってやり方だと、イメージにするって作業をさぼって、イメージの代用品として、日本語単語を使ってるわけだけど、これが、多くの人が単語の覚え方として間違えてるところです。日本語単語そのものをイメージの代用品にしてちゃ駄目だってことです。イメージそのものを最初に作らなきゃ駄目です。日本語単語は、そのイメージを瞬時に誘発できるきっかけや目印に過ぎない。最終的には、日本語単語は脱ぎ捨てられて、英単語の音・綴りに触発されればイメージだけが動くようになる。
 練習のプロセスの最初で、英単語に対して日本語単語を対置するだけで、イメージを作らないというのが多くの人がやっているトンチンカンなんです。まあ、こういうのは一番話が伝わりにくいことなんですけど、練習している人には伝わりやすい。似たようなことやってない人には、話しても通じないことが多い。
小川 素読舎の方法でずっとやってきた人なら、単語のイメージを深めるというか、ふくらませることだけでやっていけるような気がするんですよ。英検にしても、他の勉強にしても。
根石 K君の場合は、学校の教科書とか学校で扱う英字新聞の記事とか、そういうのはどうせつきあわなきゃならないから、それを使うのがいいと思う。出てきた単語で知らないのは、片っ端から「電圧装置」に叩き込むのでいいと思う。それ以上のことをやる時は、小川さんのやり方だね、辞書を使って、類義語・同義語を含む文丸ごとを扱う。それがいいと思う。それで、また別の文を読むことで、単語のほんとの顔が少し見えてくるから。
 なるほど。
根石 だけど、もう一つあるんだね。あのさ、Mのとこでついちゃった悪い癖だわ。声を張り上げるというか、うなるというか。やたらに野太い声で喉を使う。このMの強烈な癖は、俺、Mをレッスンして直したんだ。それなのに、Mの生徒にはみっちりとその癖がついていて、なかなか取れない。今、通塾で来てる中学生も、喉でうなったり、声を張り上げるって癖が強烈に染みついてる。
 ・・・
根石 声をこもらせる人もいるけど、K君の場合はこもりはあまりない。だけど、声を張り上げる癖とうなっちゃう癖はかなり強く染みついちゃっているので、今、これを剥ぎ落としている。
 はい。
根石 最近よく出す指示で compact って言ってるじゃん。
 はい。
根石 たとえ話で言えば、でかいダンボール箱へ物をがさがさ入れといたのを、小さいダンボールへ移し変えると。きっちりと詰めなおしてコンパクトにする。文を繰り返し読むとか繰り返し言う場合では、口の動きが忙しくなるし、まともにやると口が痛くなる。口が痛くなるかい?
 なります。
根石 うん、それでいいんだ。compact って指示が出たら、喉から力を抜いて、まともに口を動かし続ける。例えば、舌が上の歯茎の裏にぶつかっているんだけど音にはならないっていう現象だね、気配はあるけど、空気を震わせる音にはならないっていうようなこと、そういうのも弱形の仲間だけど、そういう処理がやりやすくなる。
 あのさ、何と言えばいいんかな、カジュアル派とでも言えばいいんかな、例えば、really っていうときに、「リーリ」としか日本人の耳に聞こえないから、日本人もそう言って練習すればいいんだという人がいる。弱形の【逆さe】は言わなくていいというんだが、俺はそうは考えないんだ。「赤信号みんなで渡れば恐くない」ので、辞書でも「リーリ」は採用してるけど、ネイティヴのまあ、言ってみれば発音上の「おさぼり」が大手を振っているだけのことだ。俺は、イギリス発音とアメリカ発音の混在なんか全然かまわないと思うけど、語学の対象としての言語では、発音はなるべく原形に近いものを押さえるべきだと思うよ。練習では原形派であるべきだと思う。実際に使う時にカジュアル派になっていくのは、そりゃ構わないと思うけど。方言の発生プロセスと同じなんで、そりゃ発生していいっていうか、当然そうなっていく。だけど、練習で、最初からカジュアル方言でやる必要はないし、それやってたら、歯止めが効かない。どこまで崩れるかわからない。音なんかどこまでも崩れていく。あるいは、孤立した個人的な方言を作っちゃって、通じないってことになっちゃう。だって、really の【逆さe】を無視するってことにとどまらなくなる。r と l も同じ音として認識しちゃう日本人はいるから、全然通じない口の動きができちゃうってところまで崩しちゃうかもしれない。その危険が、カジュアル派にはいつでもあるんだ。できるのは孤立した方言だよ。通じないか、誤解を招くか、相手のストレスがでかいかってことになる。r と l の区別ができてて、使っているうちに弱形の【逆さe】がさらにどんどん弱くなっていって、自分の口の動きを通して、「リーリ」の音がなんで広く流通するようになったのかがわかってるっていうのが、まともな語学だと思ってるんだ。カジュアル派が、音の崩れを食い止められる基準を作ってくれるんなら話は別だけど、そんなごくろうなことをやる気は連中にはない。気楽で安直な連中がカジュアル派だ。自分の耳にこう聞こえるからそれでいいっていうんなら、音はどこでどう崩れるかわかんない。どこにもまともな基準てものがない。そんなことやってたら、過去形の ed の d 音なんかすっとんじゃうものがいくらでもある。英語ネイティヴの連中は、ed の d音を「黙音」としてちゃんと聴き取っていることを、カジュアル派はドブに流してしまう。それは語学の態度としては無知で傲慢なものだ。語学じゃなくて、赤ん坊がその言語で育つんなら話は別だ。語学には赤ん坊が知恵熱を出すほどの真剣さってのはないからね。赤ん坊にはそれがあるんだ。カジュアルの繰り返しから、無意識は原形音を抽出して、赤ん坊が大きくなっていくにつれて、無意識に原形音を保持したまま、日常的にはカジュアル音でしゃべるっていう複相構造が備わるようになる。日本の語学のカジュアル派は、その複相構造から、表面の薄っぺらな音だけ受け取っているだけになる。単層だ。語学に向かう態度としても薄っぺらだ。俺はカジュアル派には反対だ。10歳以後の口というか、語学をやる口は、赤ん坊が大きくなるにつれて備えていく複相構造そのものを備えることはない。赤ん坊にはできるけど、大人にはできないってことが絶対にあるんだ。だから、語学では原形でやるんでいい。辞書に載ってる発音記号でいい。それが、俺が発音記号派だということの根拠だな。
小川 この間テレビでやってましたけど、「アナと雪の女王」っていうのの主題歌があるでしょ。あれの中に let it go ってのがあって、日本人の人が「レリゴウ」と歌う人が多いってアメリカ人の人が言ってました。それはよくないっていう感じで言ってました。それも聞こえる通りに歌っているんだと思うんです。あくまで「レリゴウ」は「レリゴウ」で、let it go は let it go だということなんだと思います。アメリカ人の人は、その日番組で歌った人の発音を聞いて、ちゃんと let it go と聞こえましたって褒めていました。
根石 「レリゴウ」と聞こえるという人の「リ」が、まるきりの日本語の「リ」だったりするから、英語ネイティヴは耳障りなんでしょうかね。まあ、そのレベルならまだいいんですが、過去形の ed の黙音のすっとばしになると、ほんとに誤解の元になりますからね。カジュアル派の考えはそれを生みだしちゃいますよ。こういう話をしても、練習していない人には・・・
小川 わからない。
根石 わからないんだね。そういう問題に近いところまで練習やった人ならわかる。素読舎はかなり大事なものを発見してるんだけど、伝わらないんだね。英語やらなきゃ英語やらなきゃって人の数はやたら多いんだけどね、たいがいは的はずれなことやってる。まあ、テープ起こし大変になるから、このくらいにしとくかな。(笑)ああ、そうだ、どこまで名前出していいかな。名前というか、個人情報。
 ええっ。いやあ。イニシャルかな。
根石 名前はイニシャルね。わかった。今日はありがとう。
 ありがとうございました。
小川 ありがとうございました。

(2015年5月掲載。英検準1級のテストは2014年のもの)



2015/05/03

「音づくり」の完成形と、「切断読み」

掲示板「大風呂敷」から転写。
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「音づくり」の完成形と、「切断読み」
投稿者:根石吉久 投稿日:2015年 5月 3日(日)02時19分55秒 編集済

 音づくり」の完成形は、インプットのひとまずの完了を意味する。しかしそれは、音としての文の完成形であるに過ぎない。音にイメージがともなわない、音とイメージが分裂している、音が空っぽである等々のことが起こる。

 素読を原理とする方法では、これらの状態は、ひとまず、大きく肯定される。
 しかし、やることはあくまでも語学なので、あくまでも「ひとまず」肯定されるたけだ。

 語学においては、この状態が「故郷」である。一連のまともな音が安定していること、まともな音で同じ調子で繰り返せるようになること(「回転読み」)が、「故郷づくり」になる。

 「音づくり」が完成した音は、壊していい。ある合理的な方法で壊す。
 それが「切断読み」である。

 「切断読み」も同じ文を繰り返し読むが、音はぼそぼそ声でも構わない。何より大事なことは、口に出した単語、連語、語法などが、いつもイメージを再起させることである。初めのうちはごくゆっくり読むので、文はあちこちで、ブツ切れ状態になる。必ずイメージがともなうようにして読むので、そのようなブツ切れになる。
 イメージを生じさせるには、それ以前に一度は、語、語句、語法とイメージを合体させておかなければならない。そうでなければ生じるはずがない。イメージが生じるように準備しておくための練習が、「言いながら書きながら思う」である。(これについては別に書く)

 読むスピードをイメージが生じるスピードに従わせ、なるべくそのスピードに一致させるのである。
 少しずつ、イメージの再起が速くなる。かなりのスピードでイメージが動くようになってくれば、読みが「故郷」へ帰りつつあるのがわかるだろう。
 「音づくり」の完成形の速度に近づいてゆく。完成形と同じか、それにごく近いところまで口の動きが速くなっても、イメージがともなうなら、あるいは文全体でひとつのイメージが成り立つなら、それはすでに「使える英語」である。あるいは、少なくとも、そのパーツである。

 「切断読み」を始める前に、帰りつくべきところをちゃんと作っておくために、「音づくり」の完成形というものが必要なのである。この完成形が、発音上まともな音であればあるほど通じやすい英語になるし、安定していればいるほど、「切断読み」で文の血の流れがよくなる。

 「音づくり」の完成形の質が悪ければ、イメージは流れにくくなり、文の血の流れは悪くなる。だからこそ、素読舎の「音づくり」は、口やかましいのだ。

 そのうちにレッスンで、一つの文を選び、その文に含まれる単語その他について「言いながら書きながら思う」をやっておくように指示を出そうかと考えている。それをやっておいてくれれば、「切断読み」で、語その他とイメージが合体した声かどうかを私が判断し、それでいいとか、違うとか言うことができるようになる。
 (しかしこの時、やたら芝居のうまい生徒がいると、このレッスンは成り立たなくなる。芝居のうまい生徒は、どうかレッスンではその能力を封じてもらいたい。)

 気がつかれた人はどれほどもいないと思うが、「語その他とイメージが合体した声かどうかを私が判断し」と、私は書いた。私はいつも「音」のことばかり言っているが、ここでは「声」と書いた。

 イメージがともなうものは、すでに「音」ではなく「声」なのである。

 音ではなく声にするところまでは、「磁場」を欠いた語学ででもできる。
 その声が、「磁場」で、具体的な状況や具体的な人や、その人の感情や思考と交流し始める基体だ。


2015/04/23

狭き門設立

 寝不足でぼんやりするだけでなく、体が寒いので炬燵にあたっていたら電話が鳴った。
 「素読舎という塾についてお聞きしたい」と言われた。英語のレッスンについての問い合わせである。
 通塾とインターネット(スカイプ)を使ったレッスンの二つがあること。近所に住まれているのでなければ、「スカイプでレッスン」をお奨めしたいと伝えた。
 どんな練習をするのかと聞かれた。英検などの級は持っていないかと尋ねたら、中学3年のときに英検3級を取っただけで、その後は英語はやっていないとのこと。大学受験はしたのかと尋ねた。大学へは行ったとのことだった。

 「入れ替え・変換」という練習をやると伝えた。文法を感覚化する練習で、語法を変換したり、単語を入れ替えたりすることを例を挙げて説明した。

 旅行に行ったときに英語が使えるようにしたいということだったので、決まり文句のことを話した。

 「旅行用の決まり文句というのがありますが、決まり文句の通り話して用が足せるという場面はまったくないわけじゃない程度です。覚えていったのに全然使う場面がなかったとか、覚えておいたものじゃ間に合わなかったとか、そういうことのほうがずっと多いです。もし、旅行のためだけに英語をと考えるんだったら、ガイドを雇った方がずっと安いです。」

 すると、旅行だけというわけではないと言われた。英会話学校に行くために、何の準備もなくて行くのではなくて、そのための準備をしたいのだとのこと。
 私の口はどんどん否定的なことをしゃべり始めた。英会話学校の教室というのは、昨日あったことを話しましょうとか、この話題について自分の意見を言いましょうとか、そんなことをやっているのがほとんどですが、その正体は何かと言えば、「仮に話してみましょう」にすぎない。話題が身近だったり、単語が簡単だったりすれば、仮にでも仮にでなくても「話す」ことができるはずだという迷信に基づいている。ヨーロッパ語どうしの間でなら成り立つ練習方法だが、日本語で育った人たちにも有効だとしてしまえば、ただの迷信に過ぎない。「話す」場合のシンタックスが異質だからだ。

 本当に話すことが必要で、その場で自分で困難を切り開く言葉ではない。別に困難を切り開くのでなくてもいいが、とにかく切実な当事者としての言葉というものがそこにはない。「当事者性」は、言葉を実際に生きるところにしかない。練習にはない。
 英会話学校というところは、みんなでお芝居をしてみましょうという設定をして、みんなでお芝居をしているだけのものだ。教室で英語をしゃべっているのは先生一人だけで、しゃべらされている生徒は、練習用に仮にしゃべってみるのである。本当に言いたいことや言う必要があるわけではなく、意識は語法やら単語やら文法やらに向かっている。他の黙っている生徒たちの意識は日本語で動いている。そこは本当は英語の場でもなんでもない。あくまでも練習用の教室という特殊な場所であり、そこには「当事者性」というものがない。語学用に仮にしゃべることには「当事者性」がない。
 「当事者性」がないところには、イメージが腑に落ちるということがない。腑に落ちるようにさせる「磁場」の強制力が働かない。

 「当事者性」がないことにおいては、机の上で一人で練習するのと何の変わりもない。
 下手な芝居なんかやっているより、一人になって激しく練習することだ。
 ガイジンのいる場所にいればしゃべれるようになるというのは、長いことずっと信じる者が絶えない新興宗教みたいなものだ。
 それに対しては、「英会話、風邪じゃないからウツラナイ」と言ってきた。

 だから、本当に英語を使いたければ、一人でやる練習をとことん大事にすべきだ。英会話学校なんかに通って英語を使えるようになったという人に私は会ったことがない。日本語で暮らしていて英語をしゃべるようになった人の語学力の実質部分は、一人でやった練習にある。その練習が的はずれでなかった人だけが、日本に暮らしながらでも英語をしゃべるようになる。
 素読舎のレッスンは、練習の質を確保してもらうためのものだ。レッスンで手に入れた練習の方法と質を、自分一人でやる練習で生かし、質を落とさずにがんがん量をかせいでもらう日が来るまで面倒をみるのである。(一人でがんがん量をかせげるようになってからでも、素読舎が練習の質をチェックすることはできる)
 そして、それをやれば、英会話学校なんか要らない。英会話学校なんか要らないというレベルを獲得してから、英会話学校の英語ネイティヴがやる上級クラスに入るのなら意味はある。それはだけど、すでに英会話学校ではない。英語学校だ。

 そんなに本気になってやらなくても、ある程度やってから英会話学校に行けば英語が使えるようになると思っているんだったらやってごらんになるのがいい。無駄金を使うだけになると、私はあらかじめ言っておきます。

 私の口はそんなことをしゃべるのだった。
 英会話学校に行って英語をしゃべるようにしようというその「見積もり」に対して、どんどん気持ちが意地悪なものになっていったのだった。「見積もり」が安すぎるとも言った。

 素読舎コーチの小川さんの友達が英語を練習していたことがある。英会話学校を経営している人で、英検1級を持っていた。自分が経営する学校で講師もやっているとのことだった。
 英検1級って、こんなものなのかと思った。レッスンを始めてすぐに音のほとんどを全部作り直さなければ駄目だということがわかった。なかなか口がまともな動きでは動かなかったが、それでも3ヶ月くらいで、始めた当初とは別物だという動きができてきた。
 この生徒が英会話学校を経営しているにもかかわらず、英会話学校なんか役に立たないということを私はしゃべった。そのことはどの生徒にも話すことなので、英会話学校を経営している生徒だからといって、話さないでいる必要はない。そういう生徒には特に話すべきだ。昔から誰にだって私はそう言ってきたのだ。
 ある日、その生徒が腹を立てた。役に立たないということはない。実際に英語を話すようになった生徒はいるというのである。
 そうじゃないんだよ。話すようになった生徒は、実質部分を一人で作っているんだ。一人でやる練習が的を外していないから話すようになるんだ。英会話学校に通うということと一人で激しく練習することを同時進行でやっている人には、能力の核になる部分が何によって作られたかがわからなくなってしまうだけだ。核になっているのは、音とイメージの一体化であり、それは一人でやる練習で作られるのだ。それが唯一の「先行するもの」であり、それがあれば英会話学校が音とイメージの一体化を強化したり、イメージを純化するきっかけにはなる。

 それは引き算で証明できる。
 「英会話学校+1人の練習」から「英会話学校」を引き算すれば「一人の練習」が残る。「一人の練習」で英語を話すことができるようになるか。音とイメージの一体化(瞬間化)を抜かさなければできるようになる。
 「英会話学校+1人の練習」から、「一人の練習」を引き算すれば、「英会話学校」だけが残る。「英会話学校」だけで英語を話すことができるようになるか。ならない。言葉の当事者性は教室という場にはないからだ。
 決め手は「一人の練習」にある。

 そもそも、英会話学校なんていうけったいなものは日本にしかない。英語学校は世界中にあるが、英会話学校は日本にしかない。こんなものがあるということが、英語という言語の周りから立ちのぼる日本人の文化的植民地根性なのだ、と、そこまではその生徒に言わなかったが、その生徒は腹を立てて私のレッスンをやめてしまった。植民地根性だとまではっきり言っておけばよかったかと今は思っている。

 長年放置されていたでたらめな音を私が直したのだ。
 その直しがどれほど貴重なものかわからないのか。
 あなたの周りにいるガイジンが誰一人として、あなたのでたらめな英語音を直せなかったじゃないか。
 ちゃんと直したのは、日本人じゃないか。
 自分の商売のケチをつけられたと思ったのだろうが、駄目なものは駄目なんだよ。人だましなんかやってんじゃねえよ。

 どうにもこうにも、私は英会話学校というものが好きになれない。英会話学校を「アテにする」ということが、多くの人において、英語をものにするということを駄目にしているものなのだ。
 俺は英会話学校なんか一回も行ったことはないし、NHKの語学番組なんか使ったことはないが、英語が口から出てくるようになったよ、と英会話学校なんかをアテにしようとする人には言いたい。「一人でやる練習」で英語は話せるようになるが、そのプロセスの質が悪かったら駄目だ。

 「日本語で暮らしながら」という場では、本当はどの人にだってこのことは当てはまるのだ。一人で音とイメージを一体化する練習が核心なのだ。

 英会話学校に行って英語をしゃべるようになった? 冗談じゃない。英会話学校に行くという程度のことでさえ役に立つものにしたのは、その人が音とイメージを一体化させる練習を一人で確実にやったからだ。それが先行したからだ。

 俺は一人でやる練習でしゃべれるようになったら、後は英語ネイティヴとじかにつきあった。応答がなめらかじゃない? それは日本で作った英語だからだ。俺において、文化的シンタックスを英語圏のものに置き換えるということがないからだ。当然の性質だ。ドイツ語ネイティヴで英語使いのUは、私が文化的シンタックスを英語圏のものに置き換えないまま英語を使うことを面白がった。お前の英語は詩みたいだと言ったことがある。受験英語が混じるからだ。やつは英語を通じて知る日本人の普通の生活を面白がったのだろう。
 英語圏で暮らしているのなら、私は文化的シンタックスまで英語圏のものに置き換えるだろう。日本語で暮らしていて、文化的シンタックスを英語圏のものに置き換える? おかしくないか。いや、それよりも、そんなことはそもそも可能なのか。置き換えるべきだという脅迫の元にうなずいて黙って、可能かもしれないと思い挫折することを繰り返すことが日本の近代以後のひずみだ。
 もうだいぶ時間は経った。文明レベルだけなら、日本は「近代以後」に置き換わったのだが、文化的シンタックスは置き換えられていない。その歯止めになっているのは、唯一日本語なのだ。そして、歯止めとして有効なほど、日本語は英語と異質なのだ。その異質性が作り出す馬鹿みたいな距離を噛みしめ、その苦い味を英語で話す。そういうことしか本当は私はやりたくない。英語なんかぺらぺらしゃべって何が面白いか。英語圏なら英語はただの石ころだ。日本に置けば、まるで宝石扱いだ。くだらねえ。

 電話をしてきた人が、英会話学校を「アテ」にしていることがわかった。そんなことではどうにもなりはしませんよというところまでははっきり言ってしまった。
 一人でやるべきことを一人でやりますから一人でやるべきことが何であるかを教えてくれという言葉は聞くことはできなかった。そういう考えはないのがわかった。なんとなくやってればなんとなくできるようになるなんてことはないのだ。なんとなくやってればできないままであるだけだ。英語だって同じだ。パソコンをいじるなんてこととは違う。

 練習が的外れだったら駄目だから、レッスンを使ってもらうだけのことなのだ。方法と質を手に入れたら、それをとことん使うのは生徒が自分でやることだ。量は自分でかせぐしかない。
 自分でやる必要があると言ったら、電話をしてきた人はしょぼくれてしまった。なんでしょぼくれる必要があるのだろう。ごくごく当たり前のことなのに。

 昨夜、一人の生徒がやめた。何年もレッスンをしてきて、ようやくなんとか質を成り立たせることができるようになったのだが、それが本当に自分の練習に必要なものなのだということに得心がいかないのだった。一週間の間に練習しておくということをいつまで経っても始めない。それどころか、一週間で確実に質が落ちているということが繰り返された。「はっきりした口の動きから力を抜かない」という指示を出しても、いったん口の動きをはっきりさせて(質を成り立たせて)、またすぐに力を抜いて崩してしまう。いたちごっこのようなことが繰り返された。この状態におちいった生徒は、まず全員がやめていく。

 「はっきりした口の動きから力を抜かない」というのは、私が数分の間のこととして指示していたのは確かだ。だから、生徒はその数分だけ言われた通りにやる。一人になれば、力の抜けた動きに戻してしまう。一週間たって再びレッスンしてみれば、すっかり逆戻りしている。だから、練習の質を成り立たせるだけで数年もかかったのだ。しかし、その質ができれば、大量インプットができる。インプットしたものが「しいな」にならないで済む。しかし、この生徒はやらないだろう。楽なやり方があるはずだという迷信から抜けられないからだ。

 英語教材の広告はみんなそうだ。「楽なやり方」があると言っている。これは金もうけからすれば犯罪ではないが、語学からすれば犯罪である。ないものをあると言っている詐欺だ。その詐欺がいつまでも続くのは、それにだまされる人が多いからだ。

 そりゃあ、巣の中に座っていて口をあければ親鳥が餌を口に入れてくれるという時期はある。その間は、素読舎のレッスンでも、コーチは親鳥をやる。しかし、一人で餌を探してつつくようにならなければならない日は確実に来る。しかし、生徒のなかには、いつまでも巣の中に座って口をあけることしかしない人がいる。いつ自分から餌を探すのかとこちらはひたすら待っている。自分から餌を探すようになるなら、レッスンはそれに応じて別のレベルの練習ができるのだがと思いながら待っている。
 雛鳥は死ぬ。つまり語学力が死ぬ。生徒が自分で殺したのだが、自分で殺したことには気づかない。別に英語なんか使えなくたって痛くも痒くもないからだ。

 その一方で、英語フリークという病気の人々もいる。たまにまともに英語をものにする人もあるが、自分で餌をつつこうとして、食い物にならないものばかりつついている人々がほとんどだ。

 逆説のようだが、私のレッスンは自分でやるためのレッスンなのだ。

 今日の電話の人と縁がないことになった。
 英会話学校をアテにしているとわかったときから、申し込みを断る方向でばかり話した。

 もう後退戦に入る時期が来ているのかもしれないと思った。語学論を書き、一人でやることが肝心なのだといくら口を酸っぱくして言っても多くの人には通じない。

 脳梗塞をやり、脳虚血発作をやり、立ち上がれないほどのめまいと吐き気が起こり、数年の間に3回入院した。

 後退戦に入るべきなのだろう。
 断るべき人は断ることにする。

 方法を得たら、それを使って一人でやると腹が決まっている人だけをレッスンする。そんじょそこらの習い事と一緒にされるのはもういい。英語を習う場所なんぞ腐るほどあるが、語学論を備えたレッスンがどこにあるというのだ。語学論がなかったら、しょせん迷路を手探りで進むだけのことではないか。

2015/04/13

レッスンの空き時間に

 今日、最初のレッスンの生徒(小学4年生)に、「はっきり動かす力をゆるめない」と言った。「はっきり」も「ゆるめない」も普段から言っていることだが、「はっきり動かす力をゆるめない」という一連の指示が新しいもののように感じだ。なんでだろうと思ったが、指示法として完成した形がひとつ穫れたからではないか。

 これが、日本人が英語の音を身につけるときの最重要なポイントだと今では私は確信している。そして、このポイントに焦点を合わせた訓練が行われているところがほとんどないことに、いまさらながらびっくりしている。

 日本人が英語を発音すると喉に頼る発声になり、口の動きが作る音はとても「平べったい」ものになる。

 これまでの発音法は、日本語で育った人の「平べったい」口の動きに手を付けることができず、ほとんどすべてが「Repeat after me.」でしかなかった。CD付きの学習用の本もそうだし、英会話学校の外人教師もそうだ。要は、「Repeat after me.」でしかない。

 個々の音を扱う発音練習は一部で行われている。母音、子音の一つずつを無機的に個々に扱う練習である。やらないよりはやった方がましだが、この練習では文を「まるごとで一つ」として扱う発音は扱えない。つまり、音のぶつかり合いの処理が扱えないから、個々の音を扱う練習だけやった生徒は、文の中で弱形になる子音や母音の処理ができず、英語の文を読むと機械が発音したようになる。

 あくまでも文を「まるごとで一つ」として音を扱うこと。その時にぶつかり合うのは、英語の子音と子音だけではない。母音を大量に含んだ日本語の音に慣れきった日本人の口の筋肉の動きの「平べったさ」と、ことさらに立体的な(と日本人には感じられる)英語による口の動きがぶつかり合うのである。

 個々の音の訓練はあくまでも大事でありおろそかにすることはできない。
 しかし、個々の音にだけ注目していて、「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いに注目できないできたこれまでの発音指導法は、重大な側面をごっそりと欠いているのである。

 そこに差し込まれた一本のメス。それが、自分の中から出てきたものであるにもかかわらず自分に新鮮なものに思われた「はっきり動かす力をゆるめない」である。

 これは、自学自習ではまず欠け落ちるだろう。

 今のところ、大学の英語科教員養成課程の「英語音声学」は、アメリカの音声学の引き写しをやっているだけで、日本人の日本語で育った口の動きを前提にし、その動きと英語で育った人の口の動きをきちんと比較研究したものではない。だから、英語科の教員に「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いを問題意識として持っている者は皆無に近い。

 音のことだけ考えてみた場合、日本人の「使えない英語」の根はここにあるのだと思われる。

 逆に、「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いを乗り越えた人のことを考えてみればわかる。その人には、学校に放置された人と較べたら、較べものにならないくらいのインプット力が備わる。
 絶えず文まるごとを一つとして扱う音の扱い方に習熟してしまえば、それはそのままインプット力になる。
 一つの文の音が安定しているということは、同じ文をまともな音で同じ調子でいくらでも繰り返せるということである。それが成立すれば、文が体にインプットされたということである。

 私が昔から言ってきた「音づくり=インプット」の成立とはそのことである。

 子供が本当にやっておくべき練習がどんなものなのかをわかっている親は非常に少ない。外人教師のいる教室に通わせるような安直なことで、子供にまともな英語が身につくことはない。
 子供が生きる日常の言語が日本語であるという条件の下では、英語は種の状態で身に付けるべきだ。いい種を大量に用意しておき、英語の「磁場」でいっせいに発芽させるべきなのである。
 「芽を出させてはいけない」と以前から言ってきた。
 芽を出させると、ひよわなもやしみたいな英語ができる。
 そんなものにエネルギーを取られると、子供の日本語が逆にもやし化していく。

 「芽を出させてはいけない」。
 英語は「種のまま持たせる」。
 ただし、学校英語や受験英語が作り出す「しいな」では駄目だ。
 「音づくり=インプット」でしか、いい種はできない。