2016/01/01

縮約版「書きながら言いながら思う」

イメージが核を備えるための初動を与える
 



 「書きながら、言いながら、思う」というのは、語学で「単語を覚える」時にやるべきことを、そのまま練習の名前にしたものである。

 この練習は「まともな音でインプット」をするための下準備になる。

 「書きながら」で、手の動きの中にイメージを溶かし込み、綴りという「文字の塊」とイメージを一体化する。

 「言いながら」で、語の一連の音とイメージを一体化する。

 「思う」というのは、綴りや音と一体化すべきイメージを思うことである。

 何かを思うから、言葉が動くという場合の「何か」をイメージと名付けたのだと言ってもいいが、語学の練習におけるイメージは濃密なものである。
 「イメージの核」が備われば、濃密なイメージではなく、イメージの核そのものが動くようになる。これは軽く素早く動く。英語でしゃべれるというのは、「イメージの核」が動くということである。

 濃密なイメージの段階もあれば、軽くすばやく動く「イメージの核」の段階もある。
 濃密なイメージを作り、それを変容させ、「イメージの核」を備える必要がある。

 「単語を覚える」ということの実質がどういうことであるべきかに自覚的な人は少ない。

 以下に、apple という単語を覚える場合を例にする。

 「書きながら言いながら思う」では、apple を紙に書きながら音を言うのだが、音を発音する速度は、書く速度に従う。自分の手が書く時に、生じてくる文字の動きと同時化させて発音する。

 手が動く方が口が動くのより遅いから、「言う」スピードは抑え気味になる。手がなめらかに動くようになるに従って、口の動きもなめらかになっていく。

 何回書くのかは決まっていない。それに対しては、ソロバンの例え話がいい。
 ソロバンの上手な人は、次は人差し指だとか、次は薬指だとか、指の動きをいちいち意識することはない。指が勝手に動き、数をはじき出してしまう。指が勝手に動くこと、自動的に動くというところまで練習することが大事であり回数が大事なのではない。
 「書きながら」では、a の次は p だなどと意識するのではなく、apple という文字を、「自動的になめらかに」書けるようになるまで書く。

 やっていることは、「書く」だけではなく、「書きながら言いながら思う」なので、「言う」ことも「思う」ことも繰り返される。

 「書く」に合わせて「言う」ことには違和感はないかもしれないが、「書く」に合わせて「思う」には違和感を持つ人が多いかもしれない。とりわけ、「同じこと」を「思う」ということに違和感を持つ人が多いのではないか。しかし、ここが重要なポイントである。

 「思う」というのは「イメージする」ということなのだが、例えば、appleという文字を「書きながら言いながら思う」ときに、同じイメージを何度も思うことになる。これが大事なポイントなのである。

 それは語学特有の意識の使い方なのである。自分に対して、同じイメージを意識に繰り返し出現させる。しかも強制的に出現させるということは、他では見られないおかしなことであり、馬鹿みたいなことである。この馬鹿みたいなことをちゃんとやるかやらないかで、語学の成否は決まると言っても過言ではない。

 apple という文字に対応させるべき「イメージ」は、初心者は、日本語の「語のイメージ」であっても「語が表すもののイメージ」であっても構わない。「りんご」という「語のイメージ」でも、「りんご」という日本語の単語が喚起する「赤い、丸い、酸っぱい、果物」のイメージでも構わない。

 誤差が含まれることは構わない。誤差が含まれるかどうかより、誤差を含んでいようがいまいが、それが「イメージであるかどうか」が一番大事なことである。

 「イメージ」の代わりに、いつまでも「語そのもの」を使う間違いを無数の人が冒している。「語そのもの」と「語が喚起するもの」が区別されていない。

 肝腎なことは apple に「『りんご』という語そのもの」を対置し記憶しただけで済ませてはならないことである。これは、いくら強調してもしすぎることはない。この「間違い」を冒している人が多い。英語がものにならないとボヤいている人のほとんどすべてがそうではないかと思うくらいに、この「間違い」が多い。

 apple という英単語と「りんご」という日本語の単語を、「単語のまま両方覚える」ということから抜け出さないのである。

 これをやった場合、apple を見たり聴いたりしたときに、意識に「りんご」という日本語単語が出てきてしまう。その日本語単語からイメージが生じるという順番になってしまう。これをやっている限り、「しゃべる」ことはできない。英語のリズムで「読む」こともできない。
 apple からじかにイメージが生じないと駄目なのである。じかにイメージが生じるためには、apple(という語そのもの)とそのイメージが一体化されていなければならない。日本語の「語そのもの」は不要になっていなければならない。

 最初は、「りんご」という日本語の「語そのもの」を apple という英単語(語そのもの)に重ね合わせるのでも構わないのだが、それは最初だけである。「書きながら言いながら思う」をやっている途中から、「りんご」という「語のイメージ」か、想像上の「りんごというもの」を思い浮かべて、「書きながら言いながら思う」という体の動きの全体に溶かしこむ必要がある。溶かし込んで一体化する必要がある。

 熱を加えて「ごった煮」にするんだと思っても構わない。手の動き、口の動きにイメージを溶かし込むことが心の動きになり、手の動きの感覚、口の動きの感覚、心の感覚が全部一つの鍋(一人の人間)の中で「ごった煮」になる。

 「ごった煮」がよく出来たかどうかは、apple という音を聞いた瞬間にイメージが意識に生じるかどうか、apple というスペリングを見た瞬間にイメージが意識に生じるかどうかでわかる。
 大事なのは、あくまでもイメージが浮かぶかどうかであって、「りんご」という日本語の単語が浮かぶかどうかではない。イメージではなく日本語の単語が浮かぶのでは、「ごった煮」はまだ煮足りないのだということである。

 日本在住のまま英語をしゃべりだすようになるかどうかは、英単語を覚える時に使う日本語の単語の扱い方で決まる。
 日本語の単語からイメージを独立させ、英単語と合体させる。日本語単語が要らなくなるまで、イメージを英単語に移して植える。英単語から直接にイメージが生じるようになるまで、しっかりと合体させるのである。そのプロセスの全体が「書きながら言いながら思う」なのである。

 英単語である apple のイメージが、「りんご」という日本語から得られたもので本当にいいのかどうかという問題がある。

 いいのだと私は断言する。

 日本在住の普通の日本人、つまり日常的に日本語で暮らしている人たちは、日本語の語からイメージを得ることから始めるので当然なのである。とりわけ初心者や中級者は、それ以外に、「ごった煮」を煮詰める方法はない。

 要点は、イメージは変容するということにある。

 「書きながら言いながら思う」の「思う」において、同じイメージを何度でも思うのだと書いたが、実はこの時に、手の動きがなめらかになればなるほど、口の動きがなめらかになればなるほど、あるいは正確になればなるほど、イメージは音やスペリングと一体化し、少しずつ変容する。

 「書きながら言いながら思う」のプロセスの中でもイメージは変容するし、いったんその単語を覚えてしまった後に、いろいろな別の文で同じ単語に出会うことによっても、イメージは変容する。変容を重ねることで、英単語としての「語のイメージの核」が備わっていく。

 語学という行為は「語のイメージの核」が備わるまで語のイメージを変容させ続けることであるとも言える。

 だから、心配することはない。最初は日本語の単語から得たイメージを英単語と合体させることで構わないのである。日本語から得たイメージであることを心配するより、語を「語そのもの」のままに放っておかずに、片っ端からイメージにし、英単語に確実に移植することが重要なことである。
 熱を加えて「ごった煮」を煮込み、その後、放置すれば上澄みが得られる。エキスはその上澄みに含まれている。底に沈んだものの多くは、濃密なイメージに含まれていた夾雑物である。

 もっとも純化されたエキスが、「イメージの核」である。「書きながら言いながら思う」という練習は、イメージに核が備わるまでの動きに初動を与える練習なのである。

 結果から見ればそう言うことができる。
 練習の過程では、英単語とイメージを一体化することに専念するのでいい。