2015/07/18

どんづまりの小路なのか

日本語の生理にぶち当たる




 雨。
 語学論をどうするんだと自問することがときどきある。「仏頂面農法」だけでせいいっぱいだと思う一方で、語学論をこのまま放置しておくわけにはいかないと思う時がある。
 雨かと思い、少し書いておくかと思ったのだが、この先を書き続けることができるかどうかはわからない。

 ここ1、2年ほど、レッスンで「喉じゃない」「喉から力を抜く」というような指示を多発するようになった。それまでは、「個々の音」を直すことと「連音処理」しか扱わなかったが、ここ1,2年は、「力点の置き所」を扱うようになった。

 これはどんづまりの小路を奥へ進んでいるようなものだなと思う。「個々の音」だけを扱っているだけなら、理解されやすい。
 いわゆる発音矯正は、単語単位で扱うものが多く、素読舎の「音づくり」とはその点が大きく違う。「文まるごと」で発音を扱わないと、「連音処理」(子音のぶつかり合いの処理とリエゾンの処理)が扱えないから、素読舎の「音づくり」は必ず「文まるごと」で扱う。それでも、半分程度までは一般の発音矯正と重なり合うので、理解されやすかった。

 「力点の置き所」を扱うようになって、生徒のとまどいが大きいのがわかる。「喉から力を抜く」と言われても、どうやってやるのかわからないと言う人が何人もいた。私にもわからない。抜けるときは抜けるとしか言いようがない。
 「喉から力を抜く」という指示だけでも、喉7割・口の筋肉3割くらいのバランスが、喉6割・口の筋肉4割くらいにはすぐに変わるので、ひとまずはそれでやるしかない。「喉から力を抜く」という言い方でほとんど変化がない人には、「口を大きく使う」「はっきり動かすことをやめない」などとまったく違う方向から攻めるように言う。

 「力点の置き所」を扱い始める時期も人によって違う。口をはっきり動かす人とあいまいな動かし方をする人がいて、あいまいな動かし方をする人には、しばらくは口をどんどん動かすことしか要求しないこともある。これは英語の練習以前の問題であり、日本語をしゃべるときに、歯切れがいい人もいるし、もごもごとしゃべる人もいるという問題なのである。これは、人の性質にも直結しているものであり、実は語学にとっては大問題なのだが、その問題をすぐには持ち出さない。いつまでももごもごやってると、語学には不利だということを言うのは、口を動かすことにかなり慣れてきた頃だ。
 初めから歯切れよく口が動く人には、初期の段階から「力点の置き所」を言い、「喉で言わない」という指示を出す場合もある。

 「th は舌の先を上の歯の先・舌を口の中にひっこめるときのこすれる音」「l は舌が上の歯茎の裏にくっついている間だけ出る音・t や d と隣接しても音がぶつかり合うことはない」「子音と子音に挟まれた a は一瞬般若・口の両端斜め上」「t の直後が th の時は、t は th の位置に歩み寄る・歯の裏か歯の先の裏、あるいは th と同じ位置。そこで『黙った音』になる」等々の説明は、「個々の音」を扱うもので、これは何度かやっているうちに身に付いていく。説明法は素読舎が独自に練ったものであり、今も練っている。

 これらの「個々の音」だけを扱っている間はそれほど大きな問題はなかった。カタカナ発音に逆戻りする傾向はいつでもあるが、2年くらい練習すればほぼマスターしてしまう生徒が多い。
 「力点の置き所」はそうではない。逆戻りの傾向は、「個々の音」などよりはるかに強い。これは日本語で育った人の根源的な生理なのだと思うしかない。これはどんづまりの小路なんじゃないかと思うのは、それにぶち当たった時にいつも感じることなのである。

 「英語だって母音のところは喉を使う。喉を全然使わないなんてことはないんだけど、喉は必ず使うんだけど、練習の『つもり』としては、口の動きだけで言ってみるってことをやってみて」などと言ったりもする。それでうまく喉にこもる力が抜ける人もいるし、うまく抜けない人もいる。

 口の筋肉の動きそのものがある程度の強度を備えないとどうしようもないということが一つある。それに対しては、「回数を惜しまないで繰り返せ」としか言いようがない。結局そこに戻る。

 ここ1、2年で指示法が大きく変わったのは、口の筋肉の動きが「できてから」ではなく、口の筋肉の動きができていく「途中で」扱わないといけないと考えたからである。そうでないと、本人は「英語口」を備えていると思っていても、音の全体が「喉の響き」でコーティングされていて、英語の音の繊維、特に子音の繊維がぼやけたようなものができてしまう。私はひそかに疑っている。日本在住のまま作った「英語口」はほとんどすべてこれなんじゃないか、と。「喉じゃない、口を動かす」という指示を根本に据えた発音の扱い方が日本にはないんじゃないか、と。

 もちろんアメリカ生まれの「英語音声学」なんか何の役にも立たない。日本人がどれほど喉に依存して発音しているかという観点がひとつもないのだから。

 「喉じゃない」なんていう指示は、どんづまりなんじゃないかというのは、「喉じゃない」が非常に大事なポイントだということは理解されないんじゃないかと危惧しているということである。すでに問題点は発見されていても、少なくとも私が生きている間に片が付くということはないだろう。

15/07/18