2015/12/30

「書きながら言いながら思う」について

(「まともな音でインプット」のための基礎工事)




 2015年12月19日、Kさんに初めての「無料お試しレッスン」をした。「無料お試しレッスン」は2ヶ月間やることにしてある。

 このレッスンは、例えば一年、二年とレッスンを継続してしてもらった場合と同じものを手渡せるわけではないが、私の方法の概要は手渡すことができると思う。中級以上の実力をすでに持っていて、私の語学論の骨子を受け取ってもらえれば、その後、自分でやる練習に活かすことができるだろうと思う。

 手渡せるのは、急いで手描きで描いた設計図のようなものかもしれない。

 「無料お試しレッスン」は、実際に私の方法を試してみてもらって、これは人に薦められるものだと思ってもらえたなら、周りに話してもらえればと考えて始めたものでもある。

 中級者であるかどうかのきわめて大雑把な目安は、人がねらって入る大学入試を経ているかどうかくらいだろうと考えている。英検の級で言えば、2級くらいだろうか。準1級の手前くらいだろうか。
 Kさんにどこの大学に合格したのかをぶしつけに聞いてみた。北海道大学だとのことだった。日本に住んでいるアメリカ人と友達だと聞いたこともあったから、意思の疎通がとれないというレベルの英語ではないということはわかっていた。

 このレベルの人は、わずかな自在さを増やすのに、結構大量の練習をする必要がある。

 しかし、そんなことは、本人に言った方がいいのか、言わない方がいいのか、よくわからない。
 無我夢中でやっていて、気がついたら新しいレベルを獲得していたというのが一番いいのかもしれない。面白くなってやっていたら、結果的に大量の練習をやってしまっていたというのが一番いいのかもしれない。
 しかし、Kさんをレッスンするのは2ヶ月しかない。その場合には、なるべく早めに「体を使う語学」という行為に自覚的になってもらう方がいいと考えたので、初日から結構いろんなことを言ってしまった。
 語学論めいたことを言っても、わかってもらえたのかどうかよくわからない感触を持つことが多いのだが、Kさんにはすんなりとわかってもらえたと思う。

 「書きながら、言いながら、思う」という練習の説明をしていて、「思う」というのはイメージを思うのだと言い、書くという体の動き、言うという体の動きで、語や語法になじみを作るのだと話した。
 「書きながら」で、体の動きの中にイメージを溶かし込み、綴りという文字の塊とイメージを一体化する。
 「言いながら」で、語の音とイメージを一体化する。
 「思う」というのは、綴りや音と一体化すべきイメージを思うんだという話をした時、Kさんが、「何かがあるから、単語が・・・」と言った。自分が英語を話す時に、自分の中に起こることを言っているんだとわかった。

「何かを思うから、言葉が動くという場合の『何か』をイメージって言ってるわけです」

と言ったら納得してもらえ、すんなりと片付いてしまった。普段なら、ここが一番説明しにくいところなのだ。

 「書きながら言いながら思う」というのは、「単語を覚える」と言われていることと重なる。今回は、そのことに焦点を絞って書く。

 長年英語の練習法を人にしゃべってきて、「単語を覚える」ということの実質がどういうことであるべきかに自覚的な人は少ないと思っている。
 例えば、apple という単語を覚える場合を例にしてみる。
 「書きながら言いながら思う」では、appleを紙に書きながら音を言うのだが、発音する速度は書く速度に従う。自分の手が書く時に、生じてくる文字の動く速度と同時化させて発音する。
 手が動く方が口が動くのより遅いから、「言う」スピードは抑え気味になる。手がなめらかに動くようになるのに従って、口の動きもなめらかになっていく。

 何回くらい書くんですかと質問されることがあるが回数は決まっていない。その質問に対しては、ソロバンの例え話をする。ソロバンの上手な人は、次は人差し指だとか、次は薬指だとか、指の動きをいちいち意識することはない。指が勝手に動き、数をはじき出してしまう。指が勝手に動くこと、自動的に動くということが大事であり、英単語を「書く」場合にも、それと同じレベルになるまで繰り返すことが大事なんだと話す。a の次は p だなどと意識するのではなく、apple という文字を、自動的になめらかに「ひとつながり」に書けるようになるまで書く。

 やっていることは、「書く」だけではなく、「書きながら言いながら思う」なので、「言う」ことも「思う」ことも繰り返される。

 「書く」に合わせて「言う」ことには違和感はないかもしれないが、「書く」に合わせて「思う」には違和感を持つ人が多いかもしれない。とりわけ、「同じこと」を「思う」ということに違和感を持つ人が多いのではないかと思う。しかし、ここが重要なポイントなのである。
 「思う」というのは「イメージする」ということなのだが、例えば、appleという文字を「書きながら言いながら思う」ときに、同じイメージを何度も思うことをいとわないことが大事なポイントなのである。

 それは語学特有の意識の使い方なのである。これは実は馬鹿みたいなことなのだが、この馬鹿みたいなことをちゃんとやるかやらないかで、語学の成否は決まると言っても過言ではないと思う。

 話が細かくなるが、apple という文字に対応させるべき「イメージ」は、初心者は、「日本語の語のイメージ」であっても「語が表す『もの』のイメージ」であっても構わない。apple なら、「りんご」という「語のイメージ」でも、「りんご」という日本語の単語が喚起する「赤い、丸い、酸っぱい、果物」のイメージでも構わない。
 黄色いりんごもあるから、黄色じゃいけないのかとか、酸っぱいというより甘酸っぱいんじゃないかとか、人によって「誤差」はある。そういう誤差が含まれることは構わない。誤差が含まれるかどうかより、誤差を含んでいようがいまいが、それが「イメージ」であるかどうかが一番大事なことなのである。
 apple に対して、「赤い、丸い、酸っぱい、果物」ではなく、「黄色い、丸い、甘酸っぱい、果物」でも「最初は」構わないということである。いわゆる「誤差の範囲」なら何でもいい。
 apple に対して、「赤い、丸い、酸っぱい、果物」ではなく、「赤い、四角な、酸っぱい、自動車部品」を思い浮かべたら、誤差ではなく、はっきりした間違いだ。
 しかし、この間違いも、語学をやっているから間違いなのであって、先端的な現代詩を書こうとしている人が「赤い、四角な、酸っぱい、自動車部品」をイメージしたって間違いでもなんでもない。
 語学だから間違いになるのだが、語学でそんなふうに間違える人はまずいない。

 そういう間違いはないとしても、「イメージ」の代わりに、いつまでも「語そのもの」を使う間違いは無数の人が冒している。「語そのもの」と「語が喚起するもの」が区別されていないのである。

 肝腎なことは apple に「『りんご』という語そのもの」を対置しただけで済ませてはならないことである。これは、いくら強調してもしすぎることはない。英語がものにならないとボヤいている人のほとんどすべてが、この「間違い」を冒している人たちではないかと思うくらいに、この「間違い」は多い。

 apple という英単語と「りんご」という日本語の単語を、両方とも「単語のまま対にして覚える」ということから抜け出さない人が多いのである。

 一番最初は、「りんご」という日本語の「語そのもの」を apple という英単語に重ね合わせるのでも構わないのだが、「書きながら言いながら思う」をやっている途中から、「りんご」という「語のイメージ」か、想像上のりんごという「もの」を思い浮かべて、「書きながら言いながら思う」という体の動きに溶かしこむ必要がある。

 熱を加えて「ごった煮」にするんだと思っても構わない。手の動き、口の動きにイメージを溶かし込むことが心の動きになり、手の動きの感覚、口の動きの感覚、心の動きの感覚が全部一つの鍋(一人の人間)の中で「ごった煮」になる。「ごった煮」が煮詰められる。

 「ごった煮」がよく出来たかどうかは、apple という音を聞いた瞬間にイメージが意識に生じるかどうか、apple というスペリングを見た瞬間にイメージが意識に生じるかどうかでわかる。よく気をつけなければいけないのは、あくまでもイメージが浮かぶかどうかであって、「りんご」という日本語の単語が浮かぶかどうかではない。日本語の単語が浮かぶのでは、「ごった煮」はまだ煮足りないのである。

 日本在住のまま英語を練習して、ものにするかどうかは、英単語の覚え方における「語そのもの」と「語が喚起するもの」を区別してそれぞれ独立させることに基本がある。それぞれを独立させ区別した上で、一つの鍋(一人の人間)で「ごった煮」にしてしまうのである。英単語の音やスペリングとイメージが「ひとつのもの」として感じられるくらいに煮詰めてしまうのである。
 そのことで、英単語とイメージが合体した状態を作り、日本語の「語そのもの」は夾雑物として鍋の底に沈めてしまうのである。英単語の音やスペリングと(元々は日本語単語の)イメージをよく溶け合わせ、日本語単語そのものは鍋の底に沈めてしまうのである。

 英語の「語そのもの」には、手を動かし、口を動かしてなじんでしまうことができる。よくなじんでおいて、その体の動きにイメージ(元々は日本語の語が喚起したもの)を溶かし込み一体化してしまう。よく煮詰めて、英単語とイメージだけが合体した物質を作る。日本語単語そのものは不要になってしまった状態を作る。

 実はこの問題は、まだ奥がある。英単語である apple のイメージが、「りんご」という日本語から得られたもので本当にいいのかどうかという問題である。

 いいのだと私は断言する。

 日本在住の普通の日本人、つまり日常的に日本語で暮らしている人のことだが(私もその一人だが)、この人たちの中の英語の初心者や中級者は、日本語の語からイメージを得ることから始めるので当然なのである。つまり、英和辞典から使い始めるので当然なのである。
 もしそれが当然でないとすれば、小学生や中学生に「英英辞典から使い始めよ」と命ずるのと同じことである。これは極論すれば、日本に生まれ日本語で育った子供に、「お前がアメリカに生まれなかったのが悪い」と決めつけるようなものだ。それがどれほど馬鹿げた命令であるか、人々ははっきり気づいた方がいい。

 ここは日本語の磁場なのだ。

 日本語の語からイメージを得ることから始める以外に、「ごった煮」を煮詰める方法はない。もう一度極論するが、初めから英英辞典が使え、英和辞典が使えない子供は日本人ではない。私は「日本人」という語をそう定義している。

 英語でのコミュニケーションを唱え、外人に触れさせておけば、日本の英語の問題が解決するかのように振る舞っている学校現場などは、経済界・産業界の要請に従っているだけのものだ。
 コミュニケーションを唱える者たちは、日本語からイメージを得て、イメージを独在させ、英単語に「移住」させ、イメージに日本語の「語そのもの」を脱皮させるというプロセスの全体を無視している。日本在住の普通の日本人が誰でもやれる「普通のこと」が無視されている。「イメージの独在」を言う語学論がどこにもない。その点において、現代の学校の英語の扱い方そのものが、経済界・産業界の僕(しもべ)に過ぎない。もう少し進むだけで、奴隷にすぎなくなる。

 日本語の語からイメージを得ることを大きく肯定することの要点は、イメージは変容するということにある。

 「書きながら言いながら思う」の「思う」において、同じイメージを何度でも思うのだと書いたが、実はこの時に、手の動きがなめらかになればなるほど、口の動きがなめらかになればなるほど、あるいは正確になればなるほど、イメージは音やスペリングと一体化しやすくなり、そのことで少しずつ変容する。
 「書きながら言いながら思う」のプロセスの中でもイメージは変容するし、いったんその単語を覚えてしまった後にも、いろいろな別の文で同じ単語に出会うたびに、イメージは変容していく。変容することで、イメージは純化する。夾雑物が鍋の底に沈んでイメージが純化されるのである。そうして、英単語としての「語のイメージの核」が備わっていく。つまり、語学という行為は「語のイメージの核」が備わるまで語のイメージを変容させ続けることでもあるのだ。

 だから、心配することはない。
 最初は日本語の単語から得たイメージを英単語と合体させることでまったく構わないのである。日本語の単語をきっかけにして得たイメージであることを心配するより、それが本当にイメージとして独在しているかどうかが肝腎なことである。語を「語そのもの」のままに放っておかずに、片っ端からイメージに変えることが最重要なことである。「語そのもの」(スペリングや音)とイメージがどれだけ緊密に一体化されているか。それがもっとも肝腎なことなのである。

 そのためのごくシンプルなやり方が、「書きながら言いながら思う」なのである。

 と、以上のような細かい話を、短いレッスン時間の中でKさんにできたわけではない。
 だから、これはKさんにした話の補足を書こうとして書き始めたものなのだが、役に立ててくれる人が他にもいるかもしれないとも思った。そんなことがあることを期待している。