2015/04/23

狭き門設立

 寝不足でぼんやりするだけでなく、体が寒いので炬燵にあたっていたら電話が鳴った。
 「素読舎という塾についてお聞きしたい」と言われた。英語のレッスンについての問い合わせである。
 通塾とインターネット(スカイプ)を使ったレッスンの二つがあること。近所に住まれているのでなければ、「スカイプでレッスン」をお奨めしたいと伝えた。
 どんな練習をするのかと聞かれた。英検などの級は持っていないかと尋ねたら、中学3年のときに英検3級を取っただけで、その後は英語はやっていないとのこと。大学受験はしたのかと尋ねた。大学へは行ったとのことだった。

 「入れ替え・変換」という練習をやると伝えた。文法を感覚化する練習で、語法を変換したり、単語を入れ替えたりすることを例を挙げて説明した。

 旅行に行ったときに英語が使えるようにしたいということだったので、決まり文句のことを話した。

 「旅行用の決まり文句というのがありますが、決まり文句の通り話して用が足せるという場面はまったくないわけじゃない程度です。覚えていったのに全然使う場面がなかったとか、覚えておいたものじゃ間に合わなかったとか、そういうことのほうがずっと多いです。もし、旅行のためだけに英語をと考えるんだったら、ガイドを雇った方がずっと安いです。」

 すると、旅行だけというわけではないと言われた。英会話学校に行くために、何の準備もなくて行くのではなくて、そのための準備をしたいのだとのこと。
 私の口はどんどん否定的なことをしゃべり始めた。英会話学校の教室というのは、昨日あったことを話しましょうとか、この話題について自分の意見を言いましょうとか、そんなことをやっているのがほとんどですが、その正体は何かと言えば、「仮に話してみましょう」にすぎない。話題が身近だったり、単語が簡単だったりすれば、仮にでも仮にでなくても「話す」ことができるはずだという迷信に基づいている。ヨーロッパ語どうしの間でなら成り立つ練習方法だが、日本語で育った人たちにも有効だとしてしまえば、ただの迷信に過ぎない。「話す」場合のシンタックスが異質だからだ。

 本当に話すことが必要で、その場で自分で困難を切り開く言葉ではない。別に困難を切り開くのでなくてもいいが、とにかく切実な当事者としての言葉というものがそこにはない。「当事者性」は、言葉を実際に生きるところにしかない。練習にはない。
 英会話学校というところは、みんなでお芝居をしてみましょうという設定をして、みんなでお芝居をしているだけのものだ。教室で英語をしゃべっているのは先生一人だけで、しゃべらされている生徒は、練習用に仮にしゃべってみるのである。本当に言いたいことや言う必要があるわけではなく、意識は語法やら単語やら文法やらに向かっている。他の黙っている生徒たちの意識は日本語で動いている。そこは本当は英語の場でもなんでもない。あくまでも練習用の教室という特殊な場所であり、そこには「当事者性」というものがない。語学用に仮にしゃべることには「当事者性」がない。
 「当事者性」がないところには、イメージが腑に落ちるということがない。腑に落ちるようにさせる「磁場」の強制力が働かない。

 「当事者性」がないことにおいては、机の上で一人で練習するのと何の変わりもない。
 下手な芝居なんかやっているより、一人になって激しく練習することだ。
 ガイジンのいる場所にいればしゃべれるようになるというのは、長いことずっと信じる者が絶えない新興宗教みたいなものだ。
 それに対しては、「英会話、風邪じゃないからウツラナイ」と言ってきた。

 だから、本当に英語を使いたければ、一人でやる練習をとことん大事にすべきだ。英会話学校なんかに通って英語を使えるようになったという人に私は会ったことがない。日本語で暮らしていて英語をしゃべるようになった人の語学力の実質部分は、一人でやった練習にある。その練習が的はずれでなかった人だけが、日本に暮らしながらでも英語をしゃべるようになる。
 素読舎のレッスンは、練習の質を確保してもらうためのものだ。レッスンで手に入れた練習の方法と質を、自分一人でやる練習で生かし、質を落とさずにがんがん量をかせいでもらう日が来るまで面倒をみるのである。(一人でがんがん量をかせげるようになってからでも、素読舎が練習の質をチェックすることはできる)
 そして、それをやれば、英会話学校なんか要らない。英会話学校なんか要らないというレベルを獲得してから、英会話学校の英語ネイティヴがやる上級クラスに入るのなら意味はある。それはだけど、すでに英会話学校ではない。英語学校だ。

 そんなに本気になってやらなくても、ある程度やってから英会話学校に行けば英語が使えるようになると思っているんだったらやってごらんになるのがいい。無駄金を使うだけになると、私はあらかじめ言っておきます。

 私の口はそんなことをしゃべるのだった。
 英会話学校に行って英語をしゃべるようにしようというその「見積もり」に対して、どんどん気持ちが意地悪なものになっていったのだった。「見積もり」が安すぎるとも言った。

 素読舎コーチの小川さんの友達が英語を練習していたことがある。英会話学校を経営している人で、英検1級を持っていた。自分が経営する学校で講師もやっているとのことだった。
 英検1級って、こんなものなのかと思った。レッスンを始めてすぐに音のほとんどを全部作り直さなければ駄目だということがわかった。なかなか口がまともな動きでは動かなかったが、それでも3ヶ月くらいで、始めた当初とは別物だという動きができてきた。
 この生徒が英会話学校を経営しているにもかかわらず、英会話学校なんか役に立たないということを私はしゃべった。そのことはどの生徒にも話すことなので、英会話学校を経営している生徒だからといって、話さないでいる必要はない。そういう生徒には特に話すべきだ。昔から誰にだって私はそう言ってきたのだ。
 ある日、その生徒が腹を立てた。役に立たないということはない。実際に英語を話すようになった生徒はいるというのである。
 そうじゃないんだよ。話すようになった生徒は、実質部分を一人で作っているんだ。一人でやる練習が的を外していないから話すようになるんだ。英会話学校に通うということと一人で激しく練習することを同時進行でやっている人には、能力の核になる部分が何によって作られたかがわからなくなってしまうだけだ。核になっているのは、音とイメージの一体化であり、それは一人でやる練習で作られるのだ。それが唯一の「先行するもの」であり、それがあれば英会話学校が音とイメージの一体化を強化したり、イメージを純化するきっかけにはなる。

 それは引き算で証明できる。
 「英会話学校+1人の練習」から「英会話学校」を引き算すれば「一人の練習」が残る。「一人の練習」で英語を話すことができるようになるか。音とイメージの一体化(瞬間化)を抜かさなければできるようになる。
 「英会話学校+1人の練習」から、「一人の練習」を引き算すれば、「英会話学校」だけが残る。「英会話学校」だけで英語を話すことができるようになるか。ならない。言葉の当事者性は教室という場にはないからだ。
 決め手は「一人の練習」にある。

 そもそも、英会話学校なんていうけったいなものは日本にしかない。英語学校は世界中にあるが、英会話学校は日本にしかない。こんなものがあるということが、英語という言語の周りから立ちのぼる日本人の文化的植民地根性なのだ、と、そこまではその生徒に言わなかったが、その生徒は腹を立てて私のレッスンをやめてしまった。植民地根性だとまではっきり言っておけばよかったかと今は思っている。

 長年放置されていたでたらめな音を私が直したのだ。
 その直しがどれほど貴重なものかわからないのか。
 あなたの周りにいるガイジンが誰一人として、あなたのでたらめな英語音を直せなかったじゃないか。
 ちゃんと直したのは、日本人じゃないか。
 自分の商売のケチをつけられたと思ったのだろうが、駄目なものは駄目なんだよ。人だましなんかやってんじゃねえよ。

 どうにもこうにも、私は英会話学校というものが好きになれない。英会話学校を「アテにする」ということが、多くの人において、英語をものにするということを駄目にしているものなのだ。
 俺は英会話学校なんか一回も行ったことはないし、NHKの語学番組なんか使ったことはないが、英語が口から出てくるようになったよ、と英会話学校なんかをアテにしようとする人には言いたい。「一人でやる練習」で英語は話せるようになるが、そのプロセスの質が悪かったら駄目だ。

 「日本語で暮らしながら」という場では、本当はどの人にだってこのことは当てはまるのだ。一人で音とイメージを一体化する練習が核心なのだ。

 英会話学校に行って英語をしゃべるようになった? 冗談じゃない。英会話学校に行くという程度のことでさえ役に立つものにしたのは、その人が音とイメージを一体化させる練習を一人で確実にやったからだ。それが先行したからだ。

 俺は一人でやる練習でしゃべれるようになったら、後は英語ネイティヴとじかにつきあった。応答がなめらかじゃない? それは日本で作った英語だからだ。俺において、文化的シンタックスを英語圏のものに置き換えるということがないからだ。当然の性質だ。ドイツ語ネイティヴで英語使いのUは、私が文化的シンタックスを英語圏のものに置き換えないまま英語を使うことを面白がった。お前の英語は詩みたいだと言ったことがある。受験英語が混じるからだ。やつは英語を通じて知る日本人の普通の生活を面白がったのだろう。
 英語圏で暮らしているのなら、私は文化的シンタックスまで英語圏のものに置き換えるだろう。日本語で暮らしていて、文化的シンタックスを英語圏のものに置き換える? おかしくないか。いや、それよりも、そんなことはそもそも可能なのか。置き換えるべきだという脅迫の元にうなずいて黙って、可能かもしれないと思い挫折することを繰り返すことが日本の近代以後のひずみだ。
 もうだいぶ時間は経った。文明レベルだけなら、日本は「近代以後」に置き換わったのだが、文化的シンタックスは置き換えられていない。その歯止めになっているのは、唯一日本語なのだ。そして、歯止めとして有効なほど、日本語は英語と異質なのだ。その異質性が作り出す馬鹿みたいな距離を噛みしめ、その苦い味を英語で話す。そういうことしか本当は私はやりたくない。英語なんかぺらぺらしゃべって何が面白いか。英語圏なら英語はただの石ころだ。日本に置けば、まるで宝石扱いだ。くだらねえ。

 電話をしてきた人が、英会話学校を「アテ」にしていることがわかった。そんなことではどうにもなりはしませんよというところまでははっきり言ってしまった。
 一人でやるべきことを一人でやりますから一人でやるべきことが何であるかを教えてくれという言葉は聞くことはできなかった。そういう考えはないのがわかった。なんとなくやってればなんとなくできるようになるなんてことはないのだ。なんとなくやってればできないままであるだけだ。英語だって同じだ。パソコンをいじるなんてこととは違う。

 練習が的外れだったら駄目だから、レッスンを使ってもらうだけのことなのだ。方法と質を手に入れたら、それをとことん使うのは生徒が自分でやることだ。量は自分でかせぐしかない。
 自分でやる必要があると言ったら、電話をしてきた人はしょぼくれてしまった。なんでしょぼくれる必要があるのだろう。ごくごく当たり前のことなのに。

 昨夜、一人の生徒がやめた。何年もレッスンをしてきて、ようやくなんとか質を成り立たせることができるようになったのだが、それが本当に自分の練習に必要なものなのだということに得心がいかないのだった。一週間の間に練習しておくということをいつまで経っても始めない。それどころか、一週間で確実に質が落ちているということが繰り返された。「はっきりした口の動きから力を抜かない」という指示を出しても、いったん口の動きをはっきりさせて(質を成り立たせて)、またすぐに力を抜いて崩してしまう。いたちごっこのようなことが繰り返された。この状態におちいった生徒は、まず全員がやめていく。

 「はっきりした口の動きから力を抜かない」というのは、私が数分の間のこととして指示していたのは確かだ。だから、生徒はその数分だけ言われた通りにやる。一人になれば、力の抜けた動きに戻してしまう。一週間たって再びレッスンしてみれば、すっかり逆戻りしている。だから、練習の質を成り立たせるだけで数年もかかったのだ。しかし、その質ができれば、大量インプットができる。インプットしたものが「しいな」にならないで済む。しかし、この生徒はやらないだろう。楽なやり方があるはずだという迷信から抜けられないからだ。

 英語教材の広告はみんなそうだ。「楽なやり方」があると言っている。これは金もうけからすれば犯罪ではないが、語学からすれば犯罪である。ないものをあると言っている詐欺だ。その詐欺がいつまでも続くのは、それにだまされる人が多いからだ。

 そりゃあ、巣の中に座っていて口をあければ親鳥が餌を口に入れてくれるという時期はある。その間は、素読舎のレッスンでも、コーチは親鳥をやる。しかし、一人で餌を探してつつくようにならなければならない日は確実に来る。しかし、生徒のなかには、いつまでも巣の中に座って口をあけることしかしない人がいる。いつ自分から餌を探すのかとこちらはひたすら待っている。自分から餌を探すようになるなら、レッスンはそれに応じて別のレベルの練習ができるのだがと思いながら待っている。
 雛鳥は死ぬ。つまり語学力が死ぬ。生徒が自分で殺したのだが、自分で殺したことには気づかない。別に英語なんか使えなくたって痛くも痒くもないからだ。

 その一方で、英語フリークという病気の人々もいる。たまにまともに英語をものにする人もあるが、自分で餌をつつこうとして、食い物にならないものばかりつついている人々がほとんどだ。

 逆説のようだが、私のレッスンは自分でやるためのレッスンなのだ。

 今日の電話の人と縁がないことになった。
 英会話学校をアテにしているとわかったときから、申し込みを断る方向でばかり話した。

 もう後退戦に入る時期が来ているのかもしれないと思った。語学論を書き、一人でやることが肝心なのだといくら口を酸っぱくして言っても多くの人には通じない。

 脳梗塞をやり、脳虚血発作をやり、立ち上がれないほどのめまいと吐き気が起こり、数年の間に3回入院した。

 後退戦に入るべきなのだろう。
 断るべき人は断ることにする。

 方法を得たら、それを使って一人でやると腹が決まっている人だけをレッスンする。そんじょそこらの習い事と一緒にされるのはもういい。英語を習う場所なんぞ腐るほどあるが、語学論を備えたレッスンがどこにあるというのだ。語学論がなかったら、しょせん迷路を手探りで進むだけのことではないか。

2015/04/13

レッスンの空き時間に

 今日、最初のレッスンの生徒(小学4年生)に、「はっきり動かす力をゆるめない」と言った。「はっきり」も「ゆるめない」も普段から言っていることだが、「はっきり動かす力をゆるめない」という一連の指示が新しいもののように感じだ。なんでだろうと思ったが、指示法として完成した形がひとつ穫れたからではないか。

 これが、日本人が英語の音を身につけるときの最重要なポイントだと今では私は確信している。そして、このポイントに焦点を合わせた訓練が行われているところがほとんどないことに、いまさらながらびっくりしている。

 日本人が英語を発音すると喉に頼る発声になり、口の動きが作る音はとても「平べったい」ものになる。

 これまでの発音法は、日本語で育った人の「平べったい」口の動きに手を付けることができず、ほとんどすべてが「Repeat after me.」でしかなかった。CD付きの学習用の本もそうだし、英会話学校の外人教師もそうだ。要は、「Repeat after me.」でしかない。

 個々の音を扱う発音練習は一部で行われている。母音、子音の一つずつを無機的に個々に扱う練習である。やらないよりはやった方がましだが、この練習では文を「まるごとで一つ」として扱う発音は扱えない。つまり、音のぶつかり合いの処理が扱えないから、個々の音を扱う練習だけやった生徒は、文の中で弱形になる子音や母音の処理ができず、英語の文を読むと機械が発音したようになる。

 あくまでも文を「まるごとで一つ」として音を扱うこと。その時にぶつかり合うのは、英語の子音と子音だけではない。母音を大量に含んだ日本語の音に慣れきった日本人の口の筋肉の動きの「平べったさ」と、ことさらに立体的な(と日本人には感じられる)英語による口の動きがぶつかり合うのである。

 個々の音の訓練はあくまでも大事でありおろそかにすることはできない。
 しかし、個々の音にだけ注目していて、「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いに注目できないできたこれまでの発音指導法は、重大な側面をごっそりと欠いているのである。

 そこに差し込まれた一本のメス。それが、自分の中から出てきたものであるにもかかわらず自分に新鮮なものに思われた「はっきり動かす力をゆるめない」である。

 これは、自学自習ではまず欠け落ちるだろう。

 今のところ、大学の英語科教員養成課程の「英語音声学」は、アメリカの音声学の引き写しをやっているだけで、日本人の日本語で育った口の動きを前提にし、その動きと英語で育った人の口の動きをきちんと比較研究したものではない。だから、英語科の教員に「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いを問題意識として持っている者は皆無に近い。

 音のことだけ考えてみた場合、日本人の「使えない英語」の根はここにあるのだと思われる。

 逆に、「平べったさ」と「立体性」のぶつかり合いを乗り越えた人のことを考えてみればわかる。その人には、学校に放置された人と較べたら、較べものにならないくらいのインプット力が備わる。
 絶えず文まるごとを一つとして扱う音の扱い方に習熟してしまえば、それはそのままインプット力になる。
 一つの文の音が安定しているということは、同じ文をまともな音で同じ調子でいくらでも繰り返せるということである。それが成立すれば、文が体にインプットされたということである。

 私が昔から言ってきた「音づくり=インプット」の成立とはそのことである。

 子供が本当にやっておくべき練習がどんなものなのかをわかっている親は非常に少ない。外人教師のいる教室に通わせるような安直なことで、子供にまともな英語が身につくことはない。
 子供が生きる日常の言語が日本語であるという条件の下では、英語は種の状態で身に付けるべきだ。いい種を大量に用意しておき、英語の「磁場」でいっせいに発芽させるべきなのである。
 「芽を出させてはいけない」と以前から言ってきた。
 芽を出させると、ひよわなもやしみたいな英語ができる。
 そんなものにエネルギーを取られると、子供の日本語が逆にもやし化していく。

 「芽を出させてはいけない」。
 英語は「種のまま持たせる」。
 ただし、学校英語や受験英語が作り出す「しいな」では駄目だ。
 「音づくり=インプット」でしか、いい種はできない。