2019/09/17

190917
英語でしゃべるということ
 長年英語の塾をやってきて思うのは、日本人一般に英語でしゃべりたいという欲求があるということだった。一部に、英語でしゃべるなんてまっぴら御免だという人もいるが、英語でしゃべりたいという欲求が広く一般にあると感じてきた。なんとなくの英会話熱みたいなものである。普段の生活の中で、英語でしゃべれないと困るということはほとんどないのではないかと思われる人たちの中にも、英語でしゃべりたいという欲求は広く流れているように思う。
 これは何なのだろうと考えるようになった。
 私は、日本に日本語をしゃべる者として生活していて、ほとんど英語でしゃべる必要を感じないが、外国の会社と取引をしたりする人たちはそうではないのだろう。そういう人たちは切実に英語でしゃべる必要を感じているだろう。英語でしゃべりたいという広く行き渡った欲求の震源地は、そういう人たちなのだろうということは見当がつく。
 日本で日本語だけで生活しながら、英語をしゃべるようになるのは、結構大変なことだ。至難のわざだとまでは言わないが、人々が一般に想像しているのとはまるで違うレベルの練習をしなければならないのは確かなことだ。その要点は、知識を知識のままにしておかず、片っ端からイメージ化することだが、それについては後回しにする。
 日本で日本語だけで生活しながら英語の練習をすることと、アメリカなり、カナダなり、イギリスなり、オーストラリアなり、いわゆる英語圏に渡って英語をしゃべるようになることとは、まったく別の種類の経験だが、それがまったく別のことなのだということが認識として一般的なものになっていない。
 経団連などからの圧力は、学校はすぐに(会社の)実戦力になる英語力を作れということであるが、すぐに実戦力になる英語などというものが、日本語で生活することの中から生まれてくるはずはないし、日本人が日本語による生活を英語による生活と入れ替えることなどできるはずがないということを無視した妄想にすぎない。
 日本でできることは、語学力を鍛えるということに尽きる。その語学力を(会社の)実戦力として使いたければ、経団連などに属する会社が自分で金を出して、社員たちを外国に住まわせる期間をもうけるがいいのである。その期間の後半では、仕事の場で場数を踏ませるようなことも必要になるだろう。その場合に、もっとも有効なものは、英語の磁場ではなく、日本で日本語で生活した者の「いっぱしの語学力」以外のものではない。うちの会社はグローバル企業でやっていくのだから、日本で日本語で生活した者でなくてもかまわないのだというのなら、うちの会社には日本語は必要ないのだと言うことと同じであるから、日本人を社員としようなどと考えなければいい。最初からアメリカ人でもイギリス人でも新入社員として採用すればいい。それでは、経営の中枢と現場との意思の疎通がとれないなどと馬鹿なことを言い出すのだろうか。経営の中枢が英語をやるがいいのだ。中枢だけが日本語による思考を温存して、あるいは日本語に翻訳されたグローバル化理論を読み、現場には生の英語の荒波をくぐれと命令する根性なのだろうか。
 読む能力、書く能力と切り離して、日本人の中に広く流れている「英語でしゃべりたい」という欲求だけを取り出すなら、日本で日本語だけで生活しているのは、まったく不利なことであり、英語圏に渡って英語で生活することは、まったく有利なことである。
 日本語がぼろぼろじゃないかというような問題を噴出させたが、「英語でしゃべる」ということだけに目を注ぐのでよければ、英語で生活することがまったく有利であることは、帰国子女たちがはっきりさせた。日本語がぼろぼろじゃないかという問題は、誰よりも個々の帰国子女たちの切実な問題であるが、会社などというものの都合だけを云々する側からは、それはほとんど問題にされていない。
 私は、いわゆる英語圏に渡って英語をしゃべるようになることは、語学とははっきりと区別すべきだとさえ考えている。このことを、語学をいくらやっても、語学の成果がどれほど高度なものになっても、「磁場」は手に入らないという言い方で言ってきた。「磁場」だけがもたらすものが絶対にあるとも言ってきた。「語学論」と名づけて、主にそのことをめぐって、掲示板などで意見を戦わせたこともある。そして、わかる人には一発でわかることなのだが、多くの場合、変なことを言う人だとして扱われた。おそらく、いまでも同じことが起こると思われるが、私一人のことを言えば、すっかり疲れてしまって、人と意見をぶつけ合うようなことをやる気力はない。
 近頃では、ほとんど「語学論」を書くようなこともなくなっていたが、それでも言いかけたことを最後まで言っていないという思いはする。
 脳梗塞をやったことと関係があるのかないのか、考えが切れ切れで、一定の時間集中して考えるということができなくなっている自覚がある。こうなれば、切れ切れのまま、書いてみるしかないだろうという考えもある。それで、少し書いてみたが、続くかどうかは心もとない。

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