2015/05/03

「音づくり」の完成形と、「切断読み」

掲示板「大風呂敷」から転写。
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「音づくり」の完成形と、「切断読み」
投稿者:根石吉久 投稿日:2015年 5月 3日(日)02時19分55秒 編集済

 音づくり」の完成形は、インプットのひとまずの完了を意味する。しかしそれは、音としての文の完成形であるに過ぎない。音にイメージがともなわない、音とイメージが分裂している、音が空っぽである等々のことが起こる。

 素読を原理とする方法では、これらの状態は、ひとまず、大きく肯定される。
 しかし、やることはあくまでも語学なので、あくまでも「ひとまず」肯定されるたけだ。

 語学においては、この状態が「故郷」である。一連のまともな音が安定していること、まともな音で同じ調子で繰り返せるようになること(「回転読み」)が、「故郷づくり」になる。

 「音づくり」が完成した音は、壊していい。ある合理的な方法で壊す。
 それが「切断読み」である。

 「切断読み」も同じ文を繰り返し読むが、音はぼそぼそ声でも構わない。何より大事なことは、口に出した単語、連語、語法などが、いつもイメージを再起させることである。初めのうちはごくゆっくり読むので、文はあちこちで、ブツ切れ状態になる。必ずイメージがともなうようにして読むので、そのようなブツ切れになる。
 イメージを生じさせるには、それ以前に一度は、語、語句、語法とイメージを合体させておかなければならない。そうでなければ生じるはずがない。イメージが生じるように準備しておくための練習が、「言いながら書きながら思う」である。(これについては別に書く)

 読むスピードをイメージが生じるスピードに従わせ、なるべくそのスピードに一致させるのである。
 少しずつ、イメージの再起が速くなる。かなりのスピードでイメージが動くようになってくれば、読みが「故郷」へ帰りつつあるのがわかるだろう。
 「音づくり」の完成形の速度に近づいてゆく。完成形と同じか、それにごく近いところまで口の動きが速くなっても、イメージがともなうなら、あるいは文全体でひとつのイメージが成り立つなら、それはすでに「使える英語」である。あるいは、少なくとも、そのパーツである。

 「切断読み」を始める前に、帰りつくべきところをちゃんと作っておくために、「音づくり」の完成形というものが必要なのである。この完成形が、発音上まともな音であればあるほど通じやすい英語になるし、安定していればいるほど、「切断読み」で文の血の流れがよくなる。

 「音づくり」の完成形の質が悪ければ、イメージは流れにくくなり、文の血の流れは悪くなる。だからこそ、素読舎の「音づくり」は、口やかましいのだ。

 そのうちにレッスンで、一つの文を選び、その文に含まれる単語その他について「言いながら書きながら思う」をやっておくように指示を出そうかと考えている。それをやっておいてくれれば、「切断読み」で、語その他とイメージが合体した声かどうかを私が判断し、それでいいとか、違うとか言うことができるようになる。
 (しかしこの時、やたら芝居のうまい生徒がいると、このレッスンは成り立たなくなる。芝居のうまい生徒は、どうかレッスンではその能力を封じてもらいたい。)

 気がつかれた人はどれほどもいないと思うが、「語その他とイメージが合体した声かどうかを私が判断し」と、私は書いた。私はいつも「音」のことばかり言っているが、ここでは「声」と書いた。

 イメージがともなうものは、すでに「音」ではなく「声」なのである。

 音ではなく声にするところまでは、「磁場」を欠いた語学ででもできる。
 その声が、「磁場」で、具体的な状況や具体的な人や、その人の感情や思考と交流し始める基体だ。


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