2019/11/27

あいうえおフォニックス

...「あいうえおフォニックス」

 r 音はくせものである。
 r 音の舌の位置は、純然たる子音の場合は、舌が喉のほうに引っ張られるが、母音と溶け合った音では喉のほうに引っ張られることはなく、舌が口の中で持ち上がるだけである。後者では、舌が口の中で持ち上がって、「狭い音」の狭さを作る。
 r 音は普通、子音だとされているが、 [逆さe] と溶け合って、日本人の耳には「アー」と聞こえる。その音は英語にはしょっちゅう現れる。だから、この音を間違えていると、しょっちゅう間違えて英語を口にしていることになる。
 [逆さe] と溶け合って「アー」と聞こえる音を、日本語の「アー」で発音すると誤解されたり、通じなかったりする。英語ネイティヴの人の中には、この日本語の「アー」で代用させる発音にはっきりといらつきを見せる人もいる。例えば、curd と card が同じ発音になってしまうからだ。
 信州中野に世話をしてくださる人がいて、小学生を集めるから英語の教室をやってほしいと言われ、村の神社の社寮という建物をお借りし、週に一回、数年通ったことがある。
 girl, birthday の ir やら、Thursday, turn の ur やら、子供たちはみな、日本語の「アー」で言ってしまう。certain の er なんかもそうだ。word, world なんかもそうだと、この順番に語を思い浮かべたわけではないが、「これ、みんな、『母音+r』 だ」と思った。しかし、party, art などの ar は「母音+r」だが、まったく違う音、「顎の下がる明るいアー」になる。
 しかし待てよ、と思った。dollar の ar にはアクセントがない。アクセントの有無で、ar が分類できるのではないか。アクセントのない ar は、ir, ur, er, or の仲間になると分類できるのではないか。
 アクセントのある ar は別格であり、まったく違う音になる。「顎の下がる明るいアー」。
 ar をアクセントの有無で分類し、ear も ea で一つの母音と考え「母音+r」の仲間とする。そうすれば、例外のほとんどない法則ができてしまうではないか!!!

 英語音声学の学者が何を言うのかは知らない。
 どうせ彼らはアメリカの音声学の真似事しかしていない。
 日本語で育った口の動きを元に自前で何かを作ったことなどありはしないのだ。
 アメリカの音声学の真似事を大学の英語教員養成過程なんかで講義したところで、日本語で育った人向けのコーチ法になるわけがない。

 「あいうえおフォニックス」は、日本の神社に付属する建物で生まれたものである。
 早速、レッスンで使ってみた。これは役に立つとすぐにわかった。生徒たちには、「例外があるかもしれないから、一応辞書で確認した方がいい」と言うが、今のところ、中学生や高校生が目にする単語で、見つかった例外は heart くらいである。大学生でもほとんどの人が知らない単語で、hearth くらいである。辞書を引く前に見当をつけて引いてみれば、ほとんどがドンピシャと当たる。

 ただし、この法則が当てはまるのは、「母音+r」が、日本人の耳に「アー」と聞こえるものに関してであるという前提がある。

 order, corner などの or を持ち出して、「母音+r」だが [逆さe] の延びた音ではないではないかと言った人がいた。「あいうえおフォニックス」は、「母音+r」が、日本人の耳に「アー」と聞こえるものに関する法則だと何度言っても、頭が混乱していたせいか、承知できないと言った。
 order, corner の or はあんたの耳にだって 「アー」と聞こえるわけじゃないだろ? どうしたって「オー」と聞こえるだろ? 俺が言ってる法則は「アー」と聞こえるものに関するものなんだ。それはどの生徒にも最初に断って使っている。word, work, world の or は「アー」と聞こえるだろうと言ったら黙ってしまった。
 なにがなんでも、私がみつけた法則にケチをつけたかったらしい。

 ここのところを「交通整理」した人がいなかったせいで、これまで日本人は英語の「ア系列」の音にどれほど苦しめられてきたかわからない。通じないことや誤解を招くことで苦しめられたのだ。

 この法則は、誰にも公開されているが、使うときは一応、根石吉久という人がみつけたものだとクレジットを添えて欲しいと思うので、今日の日付を書き添える。2019/11/27。この日付以後に、「あいうえおフォニックス」と同じことを人に教えた場合は、その人が自分でみつけた法則ではない。

 [逆さe](とその延びた音)、「一瞬般若」、「顎の下がる明るいアー」の3つを言い分けられるようになり、th, f, r, l などいくつかの子音を日本語の類似音でなく言えれば、日本人の英語の音は、インドやタイなどの町で拾った英語音よりずっといい音になる。それをわきまえなければ、インド・タイ以下になりかねない。

 それとは別に、表面的にネイティヴを真似た「それっぽい音」は、実は英語ネイティヴの人たちは軽蔑していることが多い。

 レッスンでは、綴りの中の「母音+r」に普段から注目するように言う。
 ear も「母音+r」だと伝える。
 ar だけは気をつけるように。アクセントがあるのとないのとでは大違い、と言う。
 アクセントのある ar は「顎の下がる明るいアー」。アクセントがなければ、ir, ur, er, or, ear などの仲間で、「狭いアー」つまり、[逆さe] の延びた音、と言う。

 綴りの中の「母音+r」に普段から注目させ、かなり慣れてきた生徒に「あいうえおフォニックス」を伝える。これを伝える場合は生徒にすんなり了解できるようにするための順序があるが、それはここに書かない。実際のレッスンによって、練習の厚みができた時にだけ有効になるものだからである。
 これまで、その順序まで含めてあちこちに書いたが、「母音+r」で音を間違える人だらけの日本の英語状況なのに、まともに受け取ろうとする人がほとんどいなかった。(英語の教員たちはアキメクラばっかしなのか?)
 その音が違うとはっきり言うレッスンと、自分を開き新しい知識を身体化する生徒がいる場所でなければ、知識は知識のままにとどまってしまう。そればかりではない。まともな練習の厚みがない人には、知識が混乱を招くということもある。だから、レッスンを受けてくれる人にだけ「その順序」で伝えることにした。
 この「あいうえおフォニックス」を自在に駆使できるようになれば、日本人の英語音はまるで違ったもの(通用するもの)になるのは、これまでの生徒の音の変化で立証されている。説明の順序は練習の厚みができた生徒とコーチをする人以外には意味がない。

 生徒の中に、大学の先生の奥さんがいて、旦那さんがアメリカで昆虫の研究をするので
、アメリカに数年暮らした人がいた。日本に帰ってきて、ある日電車の中でアメリカ人に話しかけられ、降りる予定の駅はいくつめの駅かと聞かれた後、少し他の話もしたと言っていた。そのアメリカ人は、「あなたの英語の音は非常にいい。これまで日本人と話しても、変な音の人ばかりだったが、あなたの音はいい。アメリカ人に習ったのか」と言った。私の生徒は、「いいえ。日本に暮らしている日本人の先生に習いました」と言ったら、アメリカ人は目を丸くして驚いていたそうだ。この生徒の音が大きく変わったところには、「あいうえおフォニックス」が働いたのだ。小川住江さんの言う「磁場帰り」の人にも、「あいうえおフォニックス」が眼目だったのである。

 余談だが、この生徒は文学が好きで、アメリカにいる間アメリカの現代文学をペーパーバックスで読みまくったそうだ。視線の方向を逆もどりさせず、左から右へ動かすだけで、どんどん読んだそうだ。それを可能にしたのは「磁場」の作用であるが、日本に帰ってきて英語の「磁場」を失ったら、一年後には、視線が英文をたどる方向を逆もどりさせないと読めなくなっていたと言っていた。
 私のレッスンを受け始めて、一年以上経った頃、「根石さん、私、アメリカにいた頃と同じように読めるようになってるよ。不思議だね」と言った。
 西友に行くと、「みなさまのお墨付き」と印刷してある商品が売っているが、私のレッスンは、「アメリカ人のお墨付き」であり、「磁場帰り」の人からは、「不思議だね」と思われるものなのである。日本の神社育ちの英語教育法だからなのか。

 「あいうえおフォニックス」について記事に書くことというのは、所詮、知識の羅列にすぎない。それでも、もしかすれば役に立てる人がいるかもしれないと思い掲載する。

2019/09/21

FaceBook の「英語 素読舎」に掲載したもののペースト

生徒さんに録音ファイルを、メール添付かLINEの記事添付で送ってもらい、「録音ファイルチェック」を行い、掲示板にコメントを書いている。ある程度口の動きができてきた生徒に向けたコメントを以下に掲載する。これを読むだけで、素読舎が英語用にどんな口の動きを作ろうとしているのか、わかる人にはわかる。

・・・・・
火曜22:10 Kさん 投稿者:根石吉久 投稿日:2019年 9月21日(土)14時40分19秒 返信・引用

The table was laden with maps, charts, and books.

ふた息目の後半にあきらかな音のゆるみがあります。
「つなげる」と「口の動きの立体性」は相互に邪魔しあうものです。
今の段階では、単なる「つなげる」を越えて、compact な鷲づかみを成り立たせるべきです。

We are breeding that animal for research and conservation.

OK

Write the operation on a separate sheet of paper.

write the の音のつながりで、write の最後の t 音は、本来の位置でなく、次の th にきわめて近い位置、つまり、「上の歯の先の裏」あたりで「黙った音」になり、次の th も弱い音になります。黙音と弱形のつながりができておらず、t 音にしてしまっています。

I'm working as a programmer in a computer company.

口の動きの立体性が弱く、その分、喉の音が出てきています。喉の音を張り上げるほどではないので、以前よりはずっとよくなっていますが、立体的な口の動きにもっと息をぶつけてください。口の動きの引き締めも足りません。

2019/09/17

190917
英語でしゃべるということ
 長年英語の塾をやってきて思うのは、日本人一般に英語でしゃべりたいという欲求があるということだった。一部に、英語でしゃべるなんてまっぴら御免だという人もいるが、英語でしゃべりたいという欲求が広く一般にあると感じてきた。なんとなくの英会話熱みたいなものである。普段の生活の中で、英語でしゃべれないと困るということはほとんどないのではないかと思われる人たちの中にも、英語でしゃべりたいという欲求は広く流れているように思う。
 これは何なのだろうと考えるようになった。
 私は、日本に日本語をしゃべる者として生活していて、ほとんど英語でしゃべる必要を感じないが、外国の会社と取引をしたりする人たちはそうではないのだろう。そういう人たちは切実に英語でしゃべる必要を感じているだろう。英語でしゃべりたいという広く行き渡った欲求の震源地は、そういう人たちなのだろうということは見当がつく。
 日本で日本語だけで生活しながら、英語をしゃべるようになるのは、結構大変なことだ。至難のわざだとまでは言わないが、人々が一般に想像しているのとはまるで違うレベルの練習をしなければならないのは確かなことだ。その要点は、知識を知識のままにしておかず、片っ端からイメージ化することだが、それについては後回しにする。
 日本で日本語だけで生活しながら英語の練習をすることと、アメリカなり、カナダなり、イギリスなり、オーストラリアなり、いわゆる英語圏に渡って英語をしゃべるようになることとは、まったく別の種類の経験だが、それがまったく別のことなのだということが認識として一般的なものになっていない。
 経団連などからの圧力は、学校はすぐに(会社の)実戦力になる英語力を作れということであるが、すぐに実戦力になる英語などというものが、日本語で生活することの中から生まれてくるはずはないし、日本人が日本語による生活を英語による生活と入れ替えることなどできるはずがないということを無視した妄想にすぎない。
 日本でできることは、語学力を鍛えるということに尽きる。その語学力を(会社の)実戦力として使いたければ、経団連などに属する会社が自分で金を出して、社員たちを外国に住まわせる期間をもうけるがいいのである。その期間の後半では、仕事の場で場数を踏ませるようなことも必要になるだろう。その場合に、もっとも有効なものは、英語の磁場ではなく、日本で日本語で生活した者の「いっぱしの語学力」以外のものではない。うちの会社はグローバル企業でやっていくのだから、日本で日本語で生活した者でなくてもかまわないのだというのなら、うちの会社には日本語は必要ないのだと言うことと同じであるから、日本人を社員としようなどと考えなければいい。最初からアメリカ人でもイギリス人でも新入社員として採用すればいい。それでは、経営の中枢と現場との意思の疎通がとれないなどと馬鹿なことを言い出すのだろうか。経営の中枢が英語をやるがいいのだ。中枢だけが日本語による思考を温存して、あるいは日本語に翻訳されたグローバル化理論を読み、現場には生の英語の荒波をくぐれと命令する根性なのだろうか。
 読む能力、書く能力と切り離して、日本人の中に広く流れている「英語でしゃべりたい」という欲求だけを取り出すなら、日本で日本語だけで生活しているのは、まったく不利なことであり、英語圏に渡って英語で生活することは、まったく有利なことである。
 日本語がぼろぼろじゃないかというような問題を噴出させたが、「英語でしゃべる」ということだけに目を注ぐのでよければ、英語で生活することがまったく有利であることは、帰国子女たちがはっきりさせた。日本語がぼろぼろじゃないかという問題は、誰よりも個々の帰国子女たちの切実な問題であるが、会社などというものの都合だけを云々する側からは、それはほとんど問題にされていない。
 私は、いわゆる英語圏に渡って英語をしゃべるようになることは、語学とははっきりと区別すべきだとさえ考えている。このことを、語学をいくらやっても、語学の成果がどれほど高度なものになっても、「磁場」は手に入らないという言い方で言ってきた。「磁場」だけがもたらすものが絶対にあるとも言ってきた。「語学論」と名づけて、主にそのことをめぐって、掲示板などで意見を戦わせたこともある。そして、わかる人には一発でわかることなのだが、多くの場合、変なことを言う人だとして扱われた。おそらく、いまでも同じことが起こると思われるが、私一人のことを言えば、すっかり疲れてしまって、人と意見をぶつけ合うようなことをやる気力はない。
 近頃では、ほとんど「語学論」を書くようなこともなくなっていたが、それでも言いかけたことを最後まで言っていないという思いはする。
 脳梗塞をやったことと関係があるのかないのか、考えが切れ切れで、一定の時間集中して考えるということができなくなっている自覚がある。こうなれば、切れ切れのまま、書いてみるしかないだろうという考えもある。それで、少し書いてみたが、続くかどうかは心もとない。

2019/02/18




 素読を知るためのネット塾
   (「ことば塾」のお知らせ)



 長野県千曲市にある素読舎は、素読について考えてきた塾です。
 素読を原理とする練習法を編み、語学に応用し、英語を長年扱ってきました。
 初めは、高校入試・大学入試用の塾でしたが、実際に仕事で英語を必要とする社会人の方々も使う塾になりました。
 最近、地元の書店に行き、昔から世話になっている店主と話しているときに、店主は「今の子供たちの言葉の力がひどく弱体化している」と嘆きました。その嘆きは、英語の塾をやってきて私が感じていたことと同じものでした。「日本語がこの状態で、英語どころではない」と思ったことが何度もあります。
 店主は「国語力」が駄目になっているのだと言っていましたが、私は「国語力」という言葉では考えていません。国語力というと、テストの国語の問題で点がとれる力のことと思ってしまう人が多いでしょう。もちろん、その意味での「国語力」と「言葉の力」とは重なる部分がありますが、書店の店主が言いたいことも、私が感じつづけてきたものも、端的に「言葉の力」と呼ぶ方がいいと考え、「ことば塾」という名称を思いました。この名称でネット上で塾をやってみようかと思ったということです。まずは数人の生徒を募集してみようかと考えています。

 素読舎の名前でやってきた英語の塾は、これまで通り有料の塾として継続するとして、新たに枝を生やす塾=「ことば塾」は、生徒さん側から、素読舎側から、という双方からの「喜捨」でやりたいと思いました。詳細は後で説明いたします。

 素読は論語などの言葉を身体化するために、江戸時代にさかんに使われた学習方法です。学校制度ができた明治時代以降、かなり弱体化しました。昭和の前半では、子供に歴代天皇の名前を暗誦させるときに、「素読を原理とする方法」が学校で使われました。学校の教室ですから、実際は斉唱だったでしょう。しかし、これも原理は素読にあります。太平洋戦争の後は、アメリカ軍が日本の封建制に発するものに目を光らせたせいか、戦後民主主義の人たちが英米に手放しであこがれたせいかわかりませんが、素読は古い駄目なものとして、歴史のゴミ箱に捨てられました。
 江戸幕府の体制を強化するために素読が使われたり、天皇の名前を子供の体に叩き込むことに使われたりした歴史が確かにあります。どちらも体制強化のために使われたので、戦後は素読そのものが悪者扱いされました。政治を離れて見れば、学習法としての素読そのものが悪いものであるはずはないのですが、素読はゴミ箱行きの悪者として扱われたのです。
 素読を政治から引き剥がし、学習法として、人々の手に奪いかえすことはできないのかという考えは、私が大学を卒業してから始めた塾に「素読舎」という名を冠したときからありました。それから五十年近く経ちますが、政治から「独立」させても、素読は十分に有効であり、学習法として威力を持つことを知ることができました。数学の計算練習などに素読は使えませんが、その他の教科には広く使うことができます。あらゆる教科が「ことば」の上に成り立っているものだからです。
 素読を語学の学習法として生かす方法を探究してきた塾が「素読舎」です。
 書店主と話してから考えたことは、いったん語学を離れて、まずは小学校の教科を扱うことで、「ことばの力」そのものを強めることを主眼とした塾を始めることでした。募集できる生徒数は多くありませんが始めたいと思います。

「ことば塾」運営方法は以下のようになります。

レッスン日・時間帯  週一回三十分。(方法を伝えます。練習の主体は、
           普段の自習です。

媒体  インターネットにつながっているパソコン。
レッスン用媒体  電話、携帯電話、スマートフォン、スカイプ、ライン
         などのうち、どれか一つ。

対象  小学生

形態  一対一のレッスン
 
テキスト  全教科(各教科の素読による攻め方) 
      算数の計算は扱えません。文章題は扱えます。
      「ことば塾」で作成したテキスト。
      生徒側で持ち込むこともできます。
       (コピーまたは本を送っていただきます)

費用  随意(「ことば塾」への喜捨)

 (金額は「ことば塾」側で決めません。レッスンを使ってみて、生徒さんの家庭で決めていただけば結構です。経済的に余裕がない場合、出していただく必要はありません。出せるようになったら出していただくことで結構です。)

連絡先  090-4181-5912

 長野県千曲市鋳物師屋642-3
 素読舎・根石吉久

※ 書き漏らしたものがあるかもしれませんので、お気軽に上記電話番号にお問い合わせください。


2018/04/15

facebook , twitter 、繰り返しup 用

facebook , twitter 、繰り返しup 用

生徒募集中ですが、、、、、

 学校のテストの点、入試の点のためだけに、素読舎のレッスンを利用されることはご遠慮ください。学校を出てからも使い物になる英語を作るために、テストや受験を利用する人を歓迎します。テストや受験に飼われることと、使える英語を持つために、テストや受験を利用することとはまるで違うことです。

 素読舎のレッスンは「音作り」と「文法理解」を同時進行で進めます。音ができていない状態で、文法だけ進めるということは行いません。この点が、ほぼすべての学校や塾と違います。また、文法は理解したレベルにとどめておいでは駄目です。文法は絶えず使っている必要があります。素読舎の「入れ替え・変換」というレッスンでは、文法の説明をしますが、それを文の変形に使うということを絶えず行っています。

 素読舎の「音づくり」はそのままインプット力の養成です。インプットしたものがアウトプットに転じる「融点」を通過するところまで、レッスンの道筋が作られています。

 正確に読め、「語学的標準形」としてなめらかにいくらでも繰り返せるというレベルの読みが完成しただけでは、まだアウトプットで活用できる文ではありません。ここのところを何とかうまく言えないものかと何度も書いてきましたが、いまだ「圧縮」という言葉しか思いつきません。素読舎のレッスンの指示法で、「コンパクトへ」というものがありますが、これが「圧縮」をねらったものです。読みが圧縮されると、インプットがアウトプットに転じる融点のようなものが生じます。日本在住のままで英語でしゃべり出す人は、必ずこの融点を通ります。多くの場合、それが意識化されていないだけで、例外はありません。

 学校や塾の音の扱いでは、インプットされたものがアウトプットに使えません。学校は音が違っていても、それをほぼ放置します。音が違ったままでは、アウトプット時にすぐに障害になるのはわかりきったことです。また、ここで言う「融点」などを学校や塾が問題にできたためしはありません。やみくもな独学によって、「融点」を通過する人はいますが、ここを意識化した人はいません。

 素読舎の「文法理解」は、理解したものを知識にとどめてしまうことがありません。理解したものは瞬間的な感覚として働くようにならなければ、文法が英語使用(話す・聞く)に結びつくことはありません。

 テストの点に飼われた勉強では、理解したものが知識のレベルでとどまってしまいます。ペーパーテストの点を取るには有効であっても、英語使用(話す・聞く)には役にたたない知識です。知識は感覚化されなければなりません。

 

2017/02/28

英語をやる? だったら、

英語をやる? だったらまともに語学をやる以外にない。まずは音だ。音が駄目なら、全部、駄目だ。だって、語学だぜ。言葉の音を無視したら、語学にならない。


学校に行っている人たちも、学校が終わった人たちも、「英語をやる」という言い方をすることがある。「英語をやる」というのは、どんなことをヤルのだろうか。
 多くが、「学校のテストの点をとる」とか、「高校入試に受かる」とか、「大学入試に受かる」とか、「英検○級をとる」とか、「英会話学校に通う」とかいうことを言っていると思う。
 これらをヤル人たちが、気づかないでいるものがある。
 やっていることが、語学になっているのかということである。

 ヤルことのレベルが低すぎる場合も語学にならないし、方法が的外れでも語学にならない。量をかせぐことを惜しんでも語学にならない。

 ヤルことのレベルなら、レベルを上げることができる。だが、方法が的外れであることに気づかないことや、量を自分一人でかせぐことが欠かせないことに気づかないで、「教わればわかる」などという迷信から抜けないでいるのは致命的である。絶対になんて言いたくないが、語学は絶対にものにならない。

 高校入試に受かるとか、大学入試に受かるというのは、点数ががその高校や大学に受かるレベルに達するということであって、ある一定のレベルが想定されている。

 英検○級をとるというのも、その級のレベルが想定されている。
 学校のテストの点をとるというのも、平均点はどのくらいでそれをどのくらい上回るとかなんとか、偏差値がどうだのこうだの、学年の上位何位以内に入るだの入らないだの、そういうレベルというものを想定している。

 それに対して、英会話学校に通うというのはレベルを想定していないように思われる。しかし、それもやはり「想定している」のである。
 学校や入試で点をとることばかりやらされたが、ちっとも英語をしゃべるようにならなかった。少しはしゃべれるようになりたいというようなことを思っているとしたら、「しゃべれるレベル」というのが想定されているのだ。

 それがどんなことか皆目見当がつかないにしても、「しゃべれるレベル」があって、それを獲得することを想定しているのである。英会話学校に通ったことがあるような人はみんなそうなのだ。
 日本にいて、毎日を日本語で暮らしている人が、日本にいたままで英語をしゃべるようになるためには、金を出して人にどうにかしてもらおうとか、いい学校に入ればなんとかなるかもというような気楽な考えを捨てることだ。
 日本にいたままで英語をしゃべるようになるのは、極度に難しいことだとは、教材販売会社(speed learningみたいなもの)や英会話学校(NOVA とか)の商売人たちは口が裂けても言わない。それを言っちゃったら、金がもうからないから。

 NOVA に通った人で、それだけで英語をしゃべり始めた人になんて会ったことがない。そんな人がいるとはとうてい思えない。もし、しゃべり始めた人がいたなら、その人は、ガイジンをアテにせず、一人になって激しく語をイメージに変えた人だ。口や手をとことん使って、語になじみ、架空の時空を生き抜いた人だ。その時空を「語学で突き抜けた」人だ。そういう人ならいるかもしれない。
 そういう人が、NOVA とか、何でもいいが、英会話学校やら英会話教室に通っていたとしたら、金がもったいなかったねという冗談で済む。あなたがしゃべり始めた肝腎な原因は、あなたが一人でやったからなんだ、だから NOVA やら英会話学校やら英会話教室に払う金は必要なかったんだね。根本は、あなたが一人で、「語学でつきぬけた」ことがあったからだ、と。
 それがありさえすれば、いきなり英語で道を聞かれたって、対応できた。

 存外、語学はオタクと呼ばれて馬鹿にされている人たちに向いている。

 サザンの桑田に言わせれば、
 「真夜中育ちの民よ、頑張るのだ!」ということだ。

 英会話学校に通う人たちは「しゃべれるレベル」というものを想定はしているが、そのレベルがどういうものなのかまるで見当がつかないということがやはり問題だろう。単に外から眺めて、英語をしゃべる日本人がいるということがわかっているだけであって、その人の中に何が起こっているのかは見当がつかないということが問題なのだろう。

 この問題になると、実は「学校のテストの点をとる」、「高校入試に受かる」、「大学入試に受かる」、「英検○級をとる」という場合も実は同じなのである。
 
 テストの点をとるということと、英語が使えるということとはまったく別のことだ。いくらテストや入試で点がとれても、「日本語で育った人なのに、日本だけに暮らしてきた人なのに英語が使える」ということがどういうことか、その人の中に何が起こっているのかを知ることはできない。いくら学校の点が取れても、そのことはわからない。
 アメリカとかイギリスとか、カナダでもニュージーランドでもいいが、いわゆる英語圏で暮らした人も、「日本語で育った人なのに、日本だけに暮らしてきた人なのに英語が使える」ということがどういうことかはわからない。
 そのことがわかるということと、学校で英語という科目の点がとれるということや、外国暮しが長くて英語がペラペラだということとは全然関係がない。
 そのことがわかるというのは、語学というものがどういうものかという考察を経ているということなのだ。つまり、私が長年言い続けてきた「語学論」に相当するものを持っている人だけなのだ。そのことがわかるという人は。

 TOEIC の点なんかじゃ、とうていわかりっこない。なにしろ、軸足がアッチなんだから。日本人の体を無視してるんだから。

 学校のテストでいい点をとることが、使える英語を手に入れることになるのだと、なんとなくぼんやりと信じられているだけなのである。ずっとそれが続いているだけなのである。
 そんなことは、全然関係がない。
 「高校入試に受かる」も「大学入試に受かる」も、いい学校だと世間で認められている高校や大学に合格するレベルに達すれば、それがそのまま使える英語に結びついていくのだとなんとなく信じられているだけのことなのである。
 何の根拠もない。

 そんなことはありっこないという結果が、周りを見回せば、すでにはっきり「具体例だらけ」なのに、人々はなんとなく「いい学校に入れれば」と信じているのである。

 いい学校を出た人なんて、身の回りにいくらでもいるでしょ?
 学校の先生なんかそうでしょ?
 日本だけで暮らしてきて、英語をしゃべるようになった先生なんて、どれだけいるっていうの?
 英語の先生だってそうなんだよ。まして、他の教科の先生は、まず間違いなく全員そうだよ。どの先生だって、受験科目の中に英語はあったんだよ。
 ろくにしゃべれないの。日本だけで暮らしてきた人は。

 学校なんか何の関係もないのに、なんとなく関係があるかのように信じてしまっているのである。秩序や序列が好きな人たちに信じ込まされてしまっているのである。

 いい学校というのは、世間における権威である。
 なんとなく信じているのは、その権威を信じているのであって、他に何も、その信仰の根拠はない。
 あるなら言ってみろ、と言いたい。

 日本の中だけで通用する学校の序列など、世界は問題にしていない。問題にしているのは、話が成立する相手かどうかだけだ。

 トーダイ出の人の英語を見下げたガイジンなら何人も知っている。「何言ってるのかわかんねえんだよ」とやつらは言っていたのだ。アメリカへ戻れば、ただのあんちゃんやねえちゃんが、日本でトーダイに入るのにどれほど苦労するかも知らないまま、ただ単純に馬鹿にできてしまうのである。
 トーダイ生のせいではない。これまで一度だって英語の音をまともに問題にしてこなかった文部科学省のせいなのだ。「原子力村」と相似形の「英語村」というのがあって、その村の村民たちは、文部科学省の役人なんかと割と仲良ししている。村民たちは、大学教授とか呼ばれている。

 長年、語学のレッスンで生活してきた私からすれば、トーダイだのワセダだのケーオーだの、そんな権威はまったく信じるわけにはいかない。ワセダやケーオーは私立のくせに、国家から補助金のような金をもらうことを考えている。その時点で、私立の名折れなんだとは思っていない。誰が国なんかが出す金を受け取るかよ、っていうものがなければ、私立ってものに何の意味があるんだ。日本人て、国家主義者だらけなのかよ。ネトウヨみたいな国家主義じゃないにしても、国から金をもらおうなんて根性じゃ駄目だよな。

 どんな高校や大学に合格しようが、それがそのまま使える英語に結びつくことはない。まずは、そんなことはないということを腹におさめることが必要なのだが、多くの日本人にはそれができない。国家に飼われるのが好きというか、国家がかもしだす空気に対して不用心なんだわ、日本人は。
 そんで、国家が後押ししている幻想にしてやられているんだわ。いつまで経っても。

 日本国家の文部科学省が牛耳る英語教育では、知識の量は変化しても、感覚レベルのことは何も変化しない。金輪際、変化しない。いくら外人教師を増やしても、変化しない。

 世の中には信仰ばかりがのさばっている。日本在住のままでは、感覚は変化しない、と。
 向こうに住まなきゃ駄目だ、と。
 現象的にはその通りさ。
 だけど、日本にいたままでやるべきことがある。日本にいてもやれることがある。
 それをやれた者だけが、「英語世界に飲み込まれただけ」という事態を回避する。

 教育行政の話はひとまず置いて、英語の話に戻る。

 英検の級ですら、1級で「使えない英語」ができてしまうのを何度か目撃した。

 私はこれまでに英検1級を持っている人三人にレッスンした。どの人の英語の音も作り直した。

 使える英語というときに、その大元になるものは音であるが、その「元の元」というべきものが、三人ともすべて自己流のものであり、直さないと駄目だなというものだったのである。三人のうちの一人は、ほとんどすべて作り直す必要があった。まったく自己流の音で練習を続けていたのである。
 こりゃ、通じないわ、という音である。それでも、昔は英検1級に受かったのである。多分、英検をやってる側(旺文社?)も、少しはわかったことがあったのだろう。音に関して厳しくなってきている。今なら、あの音では合格しないだろう。

 英検一級を持っているほどの人なら、当時の(そして現在の)日本で英語を攻めるときの方法に関心がなかったはずはない。その人たちですら、英語の音に関してはただ自己流にやるしかなかったのである。犠牲者達なのだ。文部科学省と大学の!

 日本には、まだ、まともな語学論が成立していないのである。日本は先進国づらをした後進国にすぎない。
 安倍晋三が何を言おうが、真っ赤な嘘だと思っていた方がいい。

 いい高校だの、いい大学だのに合格しただけの人、あるいはそれらを卒業しただけの人に、「元の元」になるはずの音が備わることはない。これが備わるためには、英語の音は「子音が喉から(母音から)独立している」のに対して、日本語の音は子音が喉から独立していない、つまり、「いつも喉に依存している」という根本的な違いについての認識が普及しないかぎり無理である。当分、無理である。素読舎の生徒が減っていく間は、無理である。そのうちに、素読舎は存在しなくなるだろうが、一筋の望みをかけて、ネット上にこの文章を公開しているのである。

 何度でも言おう。
 大学の罪である。
 本当は問題がどこにあるかを指摘し、根本を変えようとしなかった大学人の根性無しが、しゃあしゃあと先生づらをしていられる日本の教育行政が駄目なのである。

 坂本龍馬は泣いているに違いない。日本がこんなもんになっちまうなんて、と泣いているに違いない。
 同じ土佐でも、龍馬を裏切ったのがいるからな。
 吉田茂とかいうのがいるからな。

 私が高校や大学にいた頃は、吉田茂は過去の人ではあるが、一流の人だった。とんでもねえんだ。吉田は日本国の首相として、アメリカの大統領とでなく、アメリカの「軍」と交渉したのだ、吉田は。
 日本国の総理大臣が、アメリカという国家の大統領に相手をしてもらえないで、アメリカ「軍」と交渉したのだ。ふざけんなっての。

 つっぱねるべきだったんだよ。「軍」とじゃ話にならねえよと、つっぱねるべきだったんだ。

 『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(矢部宏治 集英社インターナショナル)という本を読んで、吉田茂が二流の人間だというのを知った。

 日本人よ、なさけなくねえか。何百万という規模で日本人が戦争で死んだ。その上、吉田はアメリカに平伏し、密約を交わしたのだ。国家の責任者ではなく、国家の枝にすぎない「軍」と。
 二流だった吉田茂。坂本龍馬は泣いている。俺のモウソウの中で、泣いている。

 どうも、話が英語そのものからズレる。悪い癖だ。
 俺、改め、私は、早稲田大学の教員養成課程で、高校の英語科教員になるための単位をすべてとった。書類を提出すれば、当時の美濃部都知事の名前の入った英語科教員免許が手に入ったはずだ。
 そこで、俺は、私は、やめた。
 要らねえよ、日本国家なんかが発行する、キョウインメンキョは。

 大学でどんなことが行われているのかは知っている。もう何十年も前のことだが、本質的な部分で現在でも何の変わりもないのだろうと思っている。

 英語科教員養成課程では、「英語音声学」という単位をとる必要がある。この単位をとるための教科書というものが、アメリカ人が書いた音声学の本なのである。

 アメリカ人が英語の音に関して書いた本には、日本語で育ち、日本語で口の動きを自然化した日本人の口の動きを、英語用にどうするのかという観点はない。それがないということを日本人はほったらかしにしてきたのである。落ち度は日本人の側にある。これに関しては、現場の英語科教員にも落ち度がある。

 この音は日本語の音を流用できるとか、この音はまったく新たに口の動きを作らなければ駄目だとかというような区別もない。「何をどうするのか」という具体的な指針となるものがまるでない。アメリカ発の「英語音声学」なんかを習った人たちが、日本の学校の英語科の先生になっていて、そのことを何とも思っていない。

 英語の授業の現場というものと、「英語音声学」とは肉離れを起こしている。大学で勉強させられる「英語音声学」と授業の現場とは関係がない。だから、日本人のくせに、日本語で育った生徒の口をどう動かすべきかについて、学校の英語の先生たちはまるで何も知らない。

 私が大学を出て以後、学校ではAETとかALTとかいうものを採用しはじめた。現在、どの学校に行っても、英語圏から来たセンセイがいる。これは、何を意味しているかというと、文部科学省の元にある諮問機関が、日本人の英語の音は、外人を学校の先生に採用すれば解決すると考えたということなのである。あまりにも安易だと言うしかない。
 学校の教室で、外人の先生が一人いても、生徒の意識は日本語で動いている。「あ、やべえ、今度は俺がアテられるんかな」とか、日本語で意識が動いている。だから、外人の先生が一人いても、そこは英語の「磁場」にはならない。一応日本語が禁じられているから、カタカナ英語で応答したりしているが、馬鹿なお芝居にすぎない。生徒の意識がまるで日本語で動いている教室という場所には、英語の「磁場」という場はどこにもない。そこは、「隠蔽された日本語の磁場」なのだ。
 いくら決まり文句レベルの英語もどきが飛び交っていても、「日本語の磁場」である。

 AETやらALTを制度として運用し始めてから、すでに10年以上は経つのではないか。それで、日本人の英語の音はどうなったというのか。何も変わってはいない。何の変わりもないということが続いている。どれだけの国家予算の無駄づかいだったのか。

 私の近所の戸倉上山田中学というところに、AETとして採用されたエイミーという女の子が来ていたことがある。女の子といっても、大学を出たばかりの年齢だから、二十歳台前半だっただろう。日本のアニメやコミックが好きで、日本に来たかったのだと言っていた。ちょうど日本がAETを募集していることを知ったので、応募したら採用されたと言っていた。イギリス人である。当時、この子が日本語を習いたいというので、私は日本語の素読をほどこしていた。
 彼女は毎週一回我が家に来て、日本語を素読していた。
 ある日、エイミーと私とで雑談していたときに、中学校での英語の音の扱いについて私がたずねたことがある。
 AETとして、エイミーは学校の教室で、中学生の英語の音を直すと思うが、それで日本人の英語の音が直るかね?と私は訊いたのである。
 エイミーは口を結んで、私を直視した。
 そして、少し両腕を広げ、肩をすくめただけだった。
 何も言わなかった。
  Repeat after me. と生徒に言うんだろう?と私は訊いた。エイミーはそうだと言った。
  Repeat after me. じゃ直らないだろうというと、「直らない」とエイミーは答えた。

 このことをよくよく考える必要があるのだ。これはエイミー一人だけに起こっていたことではない。日本全国、どこの学校の教室でも、あるいはどこの英会話学校にも起こっていることなのだ。どこででも Repeat after me. は飛び交っている。どこでも使っている。でも日本人の 英語の音は変わらない。英会話学校に行っても、日本人の英語の音は変わらないし、もう10年以上もAETやALTが制度化されても、日本人の英語の音は何も変わっていないのである。

 例えば、apple の最初の音 [ae]を出させるのに、何度 apple を言ってみせても、何度でも「ア・ッ・プ・ル」という音が返ってきて、外人さんがお手上げになってしまうケースがいくらでもある。
 Repeat after me. を何度やっても同じことなのである。 だから、Repeat after me. が無効だと見極めて、他のやり方を工夫しようとした AET が果たしているのか? 寡聞にして、私は知らない。
 別の方法を探り当てるためには、英語の音の組成と日本語の音の組成の根本的な違いを認識しないとどうにもならないのだが、日本に来ているAETでその認識を持っている人に、一度も会ったことがない。

 日本人の英語の先生でも、その認識を持った人に会ったことがない。

 私はどうやっているか。

 「apple の最初の音だけどね、口の両端を斜め上にキュッとあげて言ってみて。タイミングを合わせて、口の両端が一番上にあがっているときに「ア」と言ってみて。」

 これでどの生徒もはっきりと音が変わる。すぐにまともな音が出せる生徒もいるし、半分くらい本来の音が混ざっていて、半分は日本語の「ア」であるような人もいるが、少なくとも必ず何割かの本来の音が宿るようになる。

 この[ae]の音を「一瞬般若」とあだ名をつけてあるが、「一瞬、般若の顔になれ」といういうことである。

 実はこの「口の両端斜め上」という指示は、一般的な英語音の参考書に書いてあるものとは違う。
 一般には、口の両端を横に引いて、「エ」と言いながら、顎を下げて「ア」と言うと説明されている。この説明だと、「エ」と言うことと「ア」と言うことの二つをやるように受け取る人が沢山いる。しかし、[ae]の音は、一つの音なのであって、最初から一つのものとして扱ったほうがいい。
 口の両端を横に引くことと顎を下げることを同時にやったときの口の開きは、上の辺が長く下の辺が短い台形のように感覚される。
 この台形は、実は「口の両端斜め上」という指示で一発で作れるのである。だから、「エと言いながらアと言う」みたいに二つのことを意識させる必要はない。ひとつのアクションでできる。「口の両端斜め上」でいい。

 「狭い音」と呼んでいるものもある。
 「狭い音」には二つあって、発音記号では[逆さe]と[逆さv]で表記されている。
 ここでは、[逆さe]のことを書くが、この音をちゃんと出す人はとても少ない。私のレッスンの生徒でも、この音を直さないで済む人は非常に少ない。
 この音は、直すというより、新たに作る必要があるのだが、この音を特別に意識する必要があると思っている人はとても少ない。
 これなんだ。これをちゃんと出さないから、日本人の音はわけがわからないと、アッチの人は言っているのだ。肝腎要の音なんだ。

 日本人の口ではどういうふうに現象するかというと、例えば、card と curd を同じ音で発音してしまうということが起こる。どちらも、日本語の「アー」で代用してしまうのである。
 card の ar は、日本語の「アー」で代用しても、誤解を引き起こすことは比較的少ない。しかし、curd を言うのに、card と同じ音とか、日本語の「アー」で言ったらまず間違いなく誤解される。
 本当は、両方とも日本語の「アー」とは違うのだが、card の方が日本語の「アー」に近いので、こっちの方が比較的、誤解に結びつくことが少ないのである。

 card の ar の音は、私のレッスンでは、「歯医者」というあだ名をつけてある。小さい子供が歯医者に行って、「はい、口をあけて」と言われると、顎を大きく下げながら「アー」という声を出す子がいる。そのときの「顎の下がった明るいアー」が英語の ar の音なのである。この「歯医者」の音は、英単語の綴りの中では、「アクセントのある ar 」として現れることが圧倒的に多い。(アクセントのない ar は curd の ur と同じ音になる。例えば、dollar のアクセントは o のところにあり、 ar にはない。この場合、つまり「アクセントのない ar」 は「狭い音」になる。)

 curd の ur は「狭い音(狭いアー)」だと言っているが、この「狭い」というのが実はやっかいなのである。英語で育った人は、口の中で舌を持ち上げて、舌と口蓋の丸天井の間に息の狭い通り道を作るのである。これがいきなりできる日本人はとても少ないので、私は次のように言う。
 「初めは、唇の開きをごく小さくしてアーのつもりで言って下さい。そうすると、こもった感じのアーの音が出ます。それが狭い音っていうときの狭さの感覚、狭さの感じなんです。その狭さの感覚をつかむことが大事です。しばらくの間、唇の開きを狭めることで狭さの感覚をしっかり感じて下さい。
 その感覚がはっきりわかると、口の中で舌を浮かせて狭い息の通り道を作ることができるようになります。それはそのうちに自然にできるようになります。最初に狭さの感覚をちゃんとつかむことが大事なんです。それができると自然に英語で育った人と同じように舌が動き出しますが、狭さの感覚がつかめないと、いつまでたってもこの音は出せません。まずは唇の開きをごく小さくして確実に狭い音を作って下さい。意識的に作って下さい。語学というものは、意識的にやるもんなんですから」

 この「狭い音」に関しては、二段階方式なのである。「一瞬般若」の[ae]に関しては、二つのことを意識させず、一発で出せることに重点を置くのだが、「狭い音」は、なかなか一発で出せる人がいないので、つまり、口の中の舌の動きを説明することが極度に難しいので、二段階方式にしてある。

 初めに感覚を持つ、そして口が動くようになるのを待つ、という二段階方式である。

 あくまでも日本人にとっての難度というものが基準なのであって、その基準は、AETにも英会話学校の教師をやっている外人にもわからない。
 日本人の英語の先生にもわからない。日本人の英語の先生は、まるでアメリカの方ばかり向いてて、日本語の音の独特な音の組成に関する認識を持っていないからである。日本人で、しかも、日本語の音の組成と英語の音の組成の違いをはっきり意識し認識している日本人にしかできないことがあるのに、その認識を持っている英語科の教員はまずいない。いるべき教員がいないのである。会ったことがない。
 
 card の ar は「アクセントのある ar」で、dollar の ar は「アクセントのない ar」である。アクセントの有無によって、同じ綴りがまったく違う音になる。
 これをはっきり意識した後だったかどうか記憶がはっきりしないが、多分、後だったのだと思う。
 四十歳台の頃、信州中野の村の神社に付属する建物を使わせてもらって、村の子供たちに英語の手ほどきをしていたことがある。その途中で、そうか、「あいうえお」を使えばいいのか、とひらめいたことがあった。
 日本人が苦手な「狭い音」は、「あいうえお」をローマ字表記して r をくっつけた綴りで圧倒的に多く現れると気がついたということである。

 「あいうえお」をローマ字で書けば、

 a  i  u  e  o

 となる。このそれぞれに r をくっつければ、

 ar, ir, ur, er, or

 となる。
 これらをすべて、ひとまず「狭い音」としてしまっていい。ただし、ar の場合だけは、アクセントがあると、まったく別の「歯医者」の音になる。
 これに気づいたとき、現在、「あいうえおフォニックス」と呼んでいるものができた。「あいうえおフォニックス」は、信州中野の神社で生まれたものなのである。

 「あいうえおフォニックス」を生徒に説明するときは次のように言う。

 「紙とボールペンを用意して下さい。あいうえおを間をあけてローマ字で書いて下さい。そのそれぞれに r をつけて下さい。ar, ir, ur, er, or になります。ar の上にもうひとつ ar を書いて下さい。上にぽつんと一つだけある ar はアクセントのある ar です。park とか、card の中の ar です。その下の ar はアクセントのない ar です。dollar の最後の ar です。で、ar, ir, ur, er, or というふうに横に並んでいるものを、芋虫みたいな横に長い丸で囲んで下さい。横に長く、縦に狭い丸で囲まれましたね。これが唇の形です。つまり、唇の開きを狭くしたときの息の通り道の形です。狭いアーです」

 この説明の後、何はともあれ、息が狭いところを通るときの「アー」の音の感覚をしっかりつかんでくれ、そうすれば、そのうちに英語ネイティヴと同じように、口の中で舌を使って「狭い音」が出せるようになるという二段階方式の説明をする。

 そして、付け加える。er の下に、それがひっくり返った re を書いてください。この re が日本人の耳に 「アー」とか「ア」とか聞こえる場合、here とか picture の最後の re だけど、この re は音としての正体は er と同じなんです。たいてい母音や半母音の後に現れます。er と書くと母音を表す音が連続して、どう発音すべきかわからないことになるから、母音や半母音のうしろで re って書くだけで、正体は er なんです。音としてはね。案外、英語の音の表記も理論的に正確なんですよ。
 それとですね、「あいうえお」のローマ字表記に r をくっつけたというのは、母音に r をくっつけたってことなんです。日本人になじみのある「あいうえお」を使ってみただけのことで、実は「母音+ r」って構造なんです。ar,ir,ur,er,or の5つの他に、6つ目のやつを付け加えて、ar,ir,ur,er,or,ear にしてください。ear も「母音+ r」なんです。これで「あいうえおフォニックス ぷらすわん」のできあがりです。

 そして、最後に前提になっていることを言う。
 これは日本人にアーと聞こえる音で、実際は日本語の音の中にはない音なんです、と。日本人の耳がアーだととらえる音についての狭さと広さについての説明です、と。
 
 これで、card の ar と curd の ur の区別がしっかりできる。ここにたどりつくのに、英語の塾を始めてから二十年以上、インターネットを使ってレッスンを始めてからも数年かかっている。

 しかし、私がこれを言い始めてからも、まだほとんど一般には普及していない。
 そして、学校でも英会話学校でも、日本人の英語の音は相変わらずのままである。
 素読舎の生徒は減る一方だが、一方で、素読舎の英語音の扱いはこれまでの最高レベルに達している。世の中はまだ知らない。

 それは私が悪いのである。
 いくら口を酸っぱくして言っても、日本人のほとんどが聞く耳を持たないことに疲れ果てて、語学論を書くことをこのところずっとサボり続けていたのである。私が悪いのである。まあ、とにかく、疲れた。いや、疲れ果てた。まだ死んではいないから、疲れることができる。

(私が作ってきたレッスンの指示方法がどんなものなのかは体験して知ってもらうことができます。090-4181-5912へ電話して、「無料お試し」をやりたいと申し出ていただけば、使えるレッスン枠をお伝えします。いままで一度も出会ったことがないというものに出会うことができます。)

 話はレッスンでの指示方法に戻るが、これらのやり方が Repeat after me. と違うのは、口のどこをどうするかという具体的な指示が手短に与えられるということである。

 具体的な指示というものが Repeat after me. には欠けている。それが欠けていたら、日本人の口の動きが変わるわけがない。

 Repeat after me. はこれまでずっと日本人には無効だったのである。無効なのに、外人さんたちは、それで済むと勘違いをしつづけたのである。日本人の英語の先生たちも、英語をしゃべるガイジンさん達の方が偉いと思いこんでいるので、何も変えることができなかったのである。あの外人さんたち、国に帰れば、ただのあんちゃん、ねえちゃん達だってのに。何も言語に関する認識は持ってないんだってのに。日本の英語科の先生たちは、なにをヘイコラしているんだろう。いやいや、ヘイコラには理由があるのだった。日本の英語科の先生たちは、日本語で育った日本人の体を無視してきたのだった。やるべきことをやらないので、外人に丸投げするしかないのだった。自前で方法を作れない人たちだったのだ。

 Repeat after me.がまったく無効になるほど、日本語の音と英語の音の間には大きなへだたりがある。
 つまり、Repeat after me. ではどうにもならないへだたりがあるということなのである。

 数えて見たことはないが、私はレッスンで「どこをどうする」の具体的な指示を二十くらいは常時使っている。週1回、わずか30分のレッスンだが、2年くらい経つとどの生徒も、始めた当初とはまるで違う音を口から自然に出せるようになる。逆に言えば、週1回30分のレッスンでは2年くらいかかるということである。
 週1回なら、せめて1時間はやりたいが、教材をすべて手作りするので、経済的に30分でないと無理なのである。できることなら、生徒一人あたり、週1回なら2時間はやりたいとも思う。いや、3時間あればレッスンだけでも何とかなるかなと思う。しかし、あくまでも語学論的にではなく、身も蓋もなく、経済的に無理なのである。

 なにもかも一人でやらなければならない。体力的に、経済的に絶対無理だという線が出てくる。
 文部科学省や大学のオサボリのせいで。
 私は音とイメージの一体化を自分の課題にしたいのに、いつまで経っても音だけにとどまって指示を出し続けなければならない。
 文部科学省や大学のオサボリのせいで。

 素読舎の指示方法が確立するまでに、塾を初めてから二十年以上かかったと書いたが、塾を始めてからほぼ四十年かかったものがある。

 それが、「喉ではない、口だ」である。

 NHKあたりの講師が、このページを読んで、盗んで言い出すかもしれないので、今日の日付を書いておく。17/02/26 。
 かつてNHKの英語講座の講師が、私の「回転読み」を盗んだことがあるのだ。日付を書いておけば、どっちが作ったものかははっきりするだろう。
 誤解されると困るので言っておくが、NHKだの大学だのの講師やら教師やらが、民間で開発されたものを使うのは構わない。金を出せとは言わない。しかし、せめて、クレジットくらいは入れろよな、と思う。しらばっくれて、自分が開発したような顔で、しゃあしゃあとNHKでしゃべってんじゃねえってんだよ。

 さてさて。何度も話を戻さなくてはならない。
 日本語の音には、ンの音以外は、どの音にも母音がくっついている。「ニ」という音を長く延ばせば、「イー」という音に変わってしまう。これは、日本語の「ニ」には、「ィ」という音が含まれているということなのである。どの音にも母音が含まれている。それがよく現れるのが、日本語の歌である。佐渡おけさを音の通り書いてみると、

 はぁーー、佐渡へーーー、佐渡へーとぉ、くーさーきーもぉ、なぁびーくぅよ

 となる。

 「ー」で表記した部分は、「あー」「えー」「うー」「いー」などの母音の延びた音である。文字では「ー」という同じ表記だが、音はまったく別の母音である。

 これらは母音である限り、喉で発音される。つまり、日本語は実は「母音漬け」の言語なのである。だから、日本人が英語を発音しはじめた当初、要らないところに母音をくっつけてしまうという現象が起こる。
 I am a student. を発音して、 I am a studen「ト」 . というふうに、文の最後で余計な母音を言ってしまう現象は、日本語の音のどれにも母音が含まれていることによるのである。

 また、日本語で育った人は、英語を発音する場合に、「喉に頼る」ということが起こる。口をはっきり動かさない平板な音になる傾向がある。
 喉に頼った音、口の動きの浅い音が、日本語で育った人に共通する英語音の特徴なのである。これは、多分、英語で育った人には、「可愛い英語の音」だろうと思う。個人の用を足す分には「可愛い」で結構だ。しかし、会社の利益や損失に結びつく商談とか、国家の存続に関わる話をする場合には、あいまいな音や平板で誤解されやすい音では、結構で済まされない。そこまで規模が大きくなくても、「間を取り持つ」場面では、なるべく明確な音の方がいい。下手すりゃ、紛糾するんだから。

 すべての学校、すべての英会話学校が、日本語で育った人は「常時喉に頼る」という事実を無視し、放置してきた。

 私がやっているレッスンは、これまで日本におけるすべてのレッスンが放置してきたことに焦点を当てたものであると言ってもいい。

 生徒にもそこに焦点を当ててもらうための言い方はいくつかある。「口の動きが浅い」「だらだらと音を延ばさない」「喉が強すぎる」「喉から口の動きを独立させろ」「口の動きを引き締めろ」「無意識に引き締める力が抜けるから自覚しろ」などなど。

 これらの指示を一言で言えば、「喉ではない、口だ」ということになるのである。

 英語の文を言ってみれば、子音がまったく「喉から独立」して、口の音だけになっているところが随所にある。いわゆる「澄んだ音」と言われる子音のところでそうなる。「濁った音」と言われる子音のところは喉が震えるが、「澄んだ音」ではまったく喉の震えはない。
 つまり、まったく喉に依存しない。

 喉への依存が0%になるところが頻出する。これこそが、日本人にとっての難点なのだ。

 I am a student. の t のところでは、まったく喉が震えることはない。だけど、studenト、と言う日本人は多い。トと言うと、トに含まれる小さなォの音が喉を震わせる。その現象だけを指摘するものはあるかもしれないが、それがいったい「日本語のどういう性質に由来するものか」を言ったものは、今のところ私は知らない。
 
 日本語ではすべての音で喉が震える。ンの場合は、m の唇が閉じた音の場合もあり、n の唇の開いた音もあるが、どちらも喉半分、鼻の内部半分が震える。震えているのである、日本語は。

 ところが、英語の音は破裂する。

 日本語では、あらゆる音が喉に依存している。つまり、あらゆる音が、たとえ音としては小さくても、母音に支えられた音なのである。そして、母音はどの音でも喉が震える。だから、日本語をしゃべると絶えず喉が震える。いつも小さく震えている。震えていて破裂しない。

 独特の日本語音の影響が英語の練習をしている生徒の音に現れる。これまで、どの生徒も例外なく、練習中に喉に頼り始めるということが起こった。

 これに例外はない。

 日本語をベースにしているのであるから、喉から独立した英語音の子音(の連続)の音が、日本人には不自然なものなのである。
 不自然なものを不自然なまま持ち続けるのではなく、自然な方へ持って行こうとして、喉に頼ってしまう。日本人が自然に感じられる音の方へ変えてしまうのである。
 その結果、英語音から大きくはみ出す。

 この「喉ではない、口だ」を言い始めてから、生徒はどんどん減った。よっぽど嫌なのだろう。今後はこれに耐えられる生徒を募集するしかない。

 私にも覚えがある。中学一年生になったとき、NHKの「基礎英語」を毎日聴けと学校の先生に言われた。しばらく聴いていたが、「こんなこと言えるか!」と思って放置したことがあった。「こんなこと言えるか!」というのは、文が意味することを「言えるか!」ではなく、「これと同じように口が動くわけがない」という端的な感覚だった。

 その後、大学受験のとき、後に「回転読み」と名付けた練習方法を工夫したが、それを激しくやると、子音が独立してくるのがはっきりわかった。さらにそのずっと後、脳梗塞をやり、口が動かしにくくなってしまったが、それでも生徒の口の動きを変えるための指示を出すことはできるので、レッスンを続けているというのが現状である。

 モデル音を出してくれと生徒に言われることがあるが、やってみると口の動きが非常にもたつく感じがあり、口の動きが鈍いという感覚がある。それでも生徒よりは口が動くから、モデル音を出す。自分ではふがいない。大学受験浪人のときとは、雲泥の差である。ここでは脳梗塞の話をしているのではないので、そのことはひとまず脇に寄せておく。

 レッスンでの口の動かし方の指示方法の紹介をを交えて、音の問題について書いてみたが、英語の練習で扱うことは音の問題だけではない。
 しかし、音の問題を取り上げてみるだけでも、学校や英会話学校がやっていることがどれほどいいかげんででたらめなものであるかはわかる。学校のテストの点をとろうとしている生徒や、入試で一流どころをねらう生徒が、音の問題をちゃんと扱っていないこともあぶり出すことができる。

 日本における英語の未来は暗いのである。
 もしかしたら、真っ暗かもしれない。

 日本にいて英語をしゃべるのは、ほとんどすべて、英語圏で生活して帰ってきた人だ。日本にいるという条件の元、あるいは日常的に日本語だけ使うという条件の元、つまり、「日本人が在日のまま」まともに英語をしゃべり始めたやつなんているのか?

 ハワイ大学の教授だかになった人だって、会社に行けば商取引で英語をしゃべらざるを得ないところにいた人なんだ。電話では、毎日英語でしゃべるのが普通の生活だったのだ。両松本と並び称された人だけどさ、醜男でないほうの松本だけどさ、あれも「日本にいた」という条件下、英語をしゃべり始めたが、実は、私が言う「磁場」に毎日入っていたんだ。地理的には日本にある会社で、英語の「磁場」に。
 「磁場」という一語が、「日本にいたまま英語をしゃべり出した」という醜男でない方の松本の成立の種明かしをやれる。語学論で「磁場」と言い出したのは、俺が最初だけどね、これを言うと、種明かしができてしまうのだ。

 最初に「英語をやる」とはどういうことなのかと書いたが、音をいいかげんに扱って、英語をやっても、「英語をやる」は成立しない。

 まあ、しかし、英語の練習に必要なのは、音だけではないので、いったんは音の問題を離れることにする。
 あらゆるものをイメージ化するのが語学なんだということを別に書くことにする。
 実は、こっちの方が、日本人が英語を使えるようになかなかならないことの原因としては、音の問題より大きいものなのかもしれない。

2016/05/09



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「音づくり」がそのままインプット法



 素読舎の英語の練習に、文まるごとを繰り返し言い続け、言い回しや語法を口の動きとして、「癖にしてしまう」やり方があります。癖にしてしまわなければ、使い物にならないからです。

 素読舎の「音づくり」のレッスンの手順は以下のようなものです。

 ゆつくり、ていねいに、つなげる  →  安定させる  →   口の動きを起こす(立体化)→  もっとつなげる  →  立体化と両立 → compact →  more compact → 《compact後半》

  途中、個々の音の直し、リエゾン、子音と子音のぶつかり合いの処理を扱い、文まるごとを同じ調子で繰り返し言い続けます。ほとんどの生徒さんが、生まれてから一度も動かしたことのないような口の動かし方を味わいます。2ヶ月か3ヶ月で、英語の音の繊維がはっきり聞こえるようになったという感想をよくお聞きします。
 この音づくりの手順が、どれほどの起爆力を持っているのかは、最終段階の 《compact後半》をやりとげた人だけが知ることができます。そこに宝が眠っています。

 単に音を直すだけのことさえ、ほとんどの学校の授業も塾もやっていません。素読舎では、個々の音を直すのは当たり前のことで、その先があります。音の立体化と連続性の両立です。これは英検一級、通訳ガイド資格を持つ人、高校の英語教師などを教えてきてみつけた日本人の発音の最大の問題点です。これは外人教師には扱うことができないものです。途中から、きつい練習になりますので、根性無しやつべこべの多い人は最初からやらない方がいいと思います。しかし、なぜ、そんなきついことをやるのでしょうか。日本在住のままで英語をしゃべり出す人は100人に1人いるかいないかというくらいのものですが、素読舎は普通の人がしゃべり出すことを最初からねらっているからです。学校や塾がやっている「使えない英語の再生産」を断ち切りたいからです。すでにしゃべれる人の音を直すこともしますが、まったくの初心者や小学生の生徒のレッスンもしています。むしろ、初心者用に手厚いレッスン方法が整えられています。
 中級者になると、私が「8語の壁」と呼んできたものにぶつかります。8語というのは、8つの単語でできている文のことですが、長年英語のレッスンを続けてきて、多くの人が、このあたりにある見えない壁にぶちあたり、なかなか越えられないでいるということがわかっています。「8語の壁」は、中級者が中級後半に入る頃に現れます。
 「音づくり」では、文まるごとを自分の口を動かして何度でも繰り返し言い続けるのですが、その時に、音(口の動き)がまともであること、同じ調子でいくらでも繰り返せること、口の動きに立体性を備えること、音の弛みや緩みを取りコンパクトなものにすることなどを全部やると、8語の文あたりで厚い壁が現れるのです。この壁を越えないと、15語以上の文を口にしたときに、ぼわぼわした何を言っているのかわからないような英語音になってしまいます。相手にはストレスになり、自分でも音に自信が持てなくなります。

 手順の最終段階、《compact後半》に宝が眠っています。インプットした文がアウトプット用に転じるのです。

 《compact後半》は、まともな音で、立体性を犠牲にせず、いくら口をぶん回しても、びくともしない安定性を実現する段階です。こうして口の動きの感覚でインプットされたものは、そうそう忘れることがありません。アウトプット用の文の原型として保存されます。文の量をかせいでおいて英語圏に渡れば、すぐになめらかな英語が芽吹きます。

 素読舎のレッスンを2ヶ月か3ヶ月、無料でお試しいただけます。スカイプか電話を使った一対一のレッスンです。「音づくり」と「文法の感覚化」を行います。ただし、レッスン枠に空きがある時に限らせていただきます。

 「音づくり」と同じく重要なものが、語や語法とイメージの一体化ですが、スペースがありませんので触れることができません。お問い合わせいただけばお話できます。

 長野県千曲市鋳物師屋642-3 素読舎 根石吉久 PHONE 090-4181-5912